2004年11月27日

Richard Loqueville

がむとさんに触発されて、Canonici 写本(Bodleian, MS Canonici misc. 213)に載っている Richard Loqueville の曲をちょこちょこ見ていたら、掲載されている6曲(ロンドー4曲、バラード1曲、Gloria 1曲)のちょっとした MIDI と手書きの transcription ができてしまいました。

シャンソンの方は記譜の上では非常に簡単で、わざわざ現代譜に直すまでもないものばかりで、とても Matteo da Perugia と同時代人(死んだ年が同じ)とは思えない明解な作りになっていますが、これはとても興味深いですね。

後年 Dufay が(あるいは Binchois も?) refine して頻繁に用いるような手法が胞芽的な形で見えるのです。カラレーションやシンコペーションの使いかたとか補完的なコントラ・テノールとか…。

それは別に驚くようなことではなくて、10代の Dufay が音楽を習っていた Cambrai の大聖堂で教えてた人が Loqueville その人なわけで、影響関係は非常に明らかなわけです。

しかし、Loqueville の作品を見ていると、単に「影響を与えた」というレベルにとどまるものではなくて、初期 Dufay のシャンソンに関しては、この人が下地を作ってしまったぐらいのことが言えるかもしれません。

つまり Loqueville 的な作風が初期 Dufay のシャンソン作法のベースになっていて、そこに例えば Ciconia の影響が入るみたいに理解すると理解しやすいのかもしれないと思ったりします。

ただここで今「 Loqueville 的な作風」と言ったものがどのくらい当時一般的だったのかは気になるところですね。おそらくこれは Loqueville 固有のものではないはずですが、これは他の実例を沢山見ないとわかりません。

面白いのは、「同じ」非(or 反)Ars subtilior 的 simple style であっても、Loqueville と Ciconia では全然違うということですね。(そもそも比較すべきでないかもしれないですが…。)

この辺をもっとよく調べれば、誰が Dufay を産んだのか(あるいは誰がルネサンス音楽を産んだのか)のストーリーが描けるのでしょうね。
(こういうのって専門家がよく調べてるはずですが、残念ながら私のところまで聞こえてきません…。)



まあ、何やらつらつらと書いてしまいましたが、基本的に今は Loqueville の MIDI などは up しない方向で…。
でも Gloria だけ、ここに置いてみます。

Loqueville: Gloria

こういう華やかな Gloria って流行ってたんでしょうか?
こちらはちょっと Ciconia を連想させますね。


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この記事へのコメント

1. Posted by がむと    2004年11月27日 16:10
ロクヴィルのMIDI聴きました。これ一瞬どっかで聴いたことあるような気がしましたが、ちょっと探してみたら、バンショワのFiles a marier (MunrowのThe Art of Courtly Loveにはいっています)に何となく雰囲気が似ています(MIMIの音色のせいもあるかもしれませんが)。多分直接的な関係(この曲を意識していたとか)はないでしょうが、もう十分ロクヴィルの段階でデュファイ・バンショワの下地は準備されていたということでしょうか。ティンクトーリスなどがロクヴィル世代に、デュファイ世代が取って代わったといっているのは、やっぱり明らかにイギリス音楽の影響を受けた後のデュファイ音楽なんでしょうね。多分、デュファイはロクヴィルが属している楽派と初期フランドル楽派の両方に属する音楽家なんでしょうね。ロクヴィルのグローリアで、いろいろなことが整理されてきまして、ありがとうございます。問題はロクヴィルとスタイルを共用する音楽家がどれぐらいいるかでしょうね。まうかめ堂さんがいっているように、チコーニアとはかなり違うような気もしますが、どうなんでしょう。
2. Posted by Myoushin    2004年11月27日 16:24
ロクヴィルの様式はブルゴーニュ公国のフィリップ・ル・ボンの好みのような気がします。
複雑さよりは叙情性重視の方向です。
デュファイは国際人だからいろいろな国や地域の影響が多いでしょうけど、バンショワを聞いているとローカルな感じが強いですよね。
それぞれ興味は尽きないです。

2004年11月28日

Richard Loqueville (2)

昨日、投稿した Richard Loqueville についての一文にいつもお世話になってるお二人が興味深いコメントを付けて下さいました。(しかも投稿からあまり間をあけずに…。)

これに答えようと思ったら長くなりそうだったので新たに一つの記事にしました。

> ティンクトーリスなどがロクヴィル世代に、
> デュファイ世代が取って代わったといっているのは、
> やっぱり明らかにイギリス音楽の影響を受けた後の
> デュファイ音楽なんでしょうね。

イギリス音楽の影響が3度という音程の多用であるとするならば、ロクヴィルも十分その影響下にあると思います。実際、昨日 up した Gloria では3度の平行進行が多用されますし、Tenor と別の声部が3度音程をロンガで持続させてる上をもう一つの声部が旋律を歌うなんてこともしています。

ではロクヴィルとデュファイでは何が違うのか、ティンクトリスは一体何を弁別していたのか、については、「古楽のすすめ」で金澤正剛先生が述べている説が説得力があると思います。


しかし単に三度を多用しただけでは充分ではない。実は三度を用いることによって、和音の性格が明確となり、複数の和音どうしの関係にも、より密接な結びつきが感じられるようになる。つまり、どの和音の次にどの和音が続くと、より効果的な響きの変化が感じられるか、ということに音楽家たちが気がついたということである。それはとりもなおさず近代的なハーモニーの目覚めに他ならない。


ロクヴィルや初期デュファイでは三度音程は頻出するがそれは充分に「和声的」でない…しかしデュファイは中期にいたる過程でおそらくは意識的に「和声感覚」へ目覚めていった、ということなのではないかと思われます。
そして、この「近代的なハーモニー」の萌芽が、ティンクトリスの言うところの「甘美な響き」ではなかろうか、と金澤先生は述べています。

Gloria のような宗教曲でなく、世俗シャンソンで、Canonici 写本に収められているロクヴィルとデュファイを見比べてみるととても面白いと思います。デュファイの方がはるかに多彩ですが、ある部分、ある曲では非常に似通っている感じがします。昨日もちらっと言いましたが、似通っているというより、ロクヴィルの方が原型的であるという気がします。(その距離感は Dufay と例えば Hugo de Lantin との隔たりなんかとは全く異るものに思います。)

※実は、世俗シャンソンの方の MIDI を up しなかったのは、一つには、「まうかめ堂」の MIDI で印象を濁らせてしまうのは悪いかな、という大きなお世話的な理由からでした。

> ロクヴィルの様式はブルゴーニュ公国のフィリップ・ル・ボン
> の好みのような気がします。

なるほど、このような視点は私にはあまりありませんでしたね。

ということはアヴィニヨンのパトロンはあの複雑怪奇な作風が好みだったということになるのでしょうか?(笑)

maucamedus at 03:28 │Comments(4) │TrackBack │中世音楽 

この記事へのコメント

1. Posted by Myoushin    2004年11月28日 05:27
>ということはアヴィニヨンのパトロンはあの複雑怪奇な作風が
>好みだったということになるのでしょうか?(笑)

そのとおりだと私は思います(^^
音楽は聞く人のものでもあると言えるんですね。
そうじゃなければ写本にはされないですよ。
マッテオ・ダ・ペルージャとかマショーみたいに自分で作らないと残らないですよ。
2. Posted by がむと    2004年11月28日 10:46
いやあ、勉強になります。普段はMIDIを作って年代順に並べているだけで、この辺の音楽史と楽曲の構造とかは適当な知識でごまかしているもので(--;

ロクヴィルのほう、写本が来たら和声などちゃんと見てみたいですね(MIDIで聴いていると結構ぼーっとして聴いてしまったりします)。そういえば、マショーも割合3度をよく使う傾向があるみたいですね。これもあまり意識して点検していなかったりするので、ちゃんと分析してみないといけないですが。

>ということはアヴィニヨンのパトロンはあの複雑怪奇な作風が好みだったということになるのでしょうか?(笑)

ということになると、Ars subtilior様式はパトロンの好みで、必ずしも14c後半の全てをおおっているわけでもないのかもしれないですね。どうもArs subtiliorの派手な前衛性のほうに気を取られてしまいがちですが、案外マショーとロクヴィルへの道筋はどこかでストレートに繋がっているのかも、という気もしますが、どうなんでしょう。
ともあれ、この道筋をMIDIや譜例などを使いながらすっきり説明したいなあ、などとちょっと考えてしまいました。
3. Posted by まうかめ堂    2004年11月28日 16:21
イギリスの影響に関して、「ロクヴィルも十分その影響下にあると思います。」と言ってしまったのはちょっと断定的過ぎたかもしれないな、と今日になって思いました。

Gloria に関しては「イギリス風」と言ってよいんじゃないかと思うような三度の使用がだいぶ目につきますが、世俗シャンソンの方はそうでもないですね。むしろこちらはそのシンプルな作りの方に目がいきます。

私は Dufay との近さを強調していますが、きっと、がむとさんが見ると違った意見を持たれるのでないかと思います。そのときは是非教えてください。

> 音楽は聞く人のものでもあると言えるんですね。

というのはまさにおっしゃる通りですね。

それにしても、Myoushin さんっていつも早起きですね。
(それともこの時間まで起きてるのでしょうか。)
4. Posted by がむと    2004年11月28日 17:03
デュファイの前はロクヴィルだったにしても、ロクヴィルを作ったのは何かとなると、殆どお手上げです……。でもまうかめ堂さんのいわれるイギリスの影響が以前から徐々にあった可能性は簡単には否定できないと思います。Canon.Mus.213が届いたら、ちょっとフランドル楽派前史と草創期にも目を向けて行きたいですね(後期は殆どほったらかしですが……)。

2005年01月08日

カペラのマショー

何度も言っていますが、先日、ヴォーカル・アンサンブル・カペラの定期公演(2005年1月3日、聖アンセルモ・カトリック目黒教会にて)に行ってまいりました。(プログラムはなんとマショーのノートル・ダム・ミサ!でした。)

ちょっと間があいてしまいましたが、一応感想を言うことになっていたので簡単に述べさせていただきたいと思います。

まずは、国内で、あるいは生で、本格的なノートル・ダム・ミサの演奏が聴けたことを喜びたいと思います。(私が生で聴いたこの曲の演奏の中ではいまのところ一番良いものだったと思います。特に、数年前、さる有名なバッハの演奏団体がこの曲をとりあげているのを聴きにいったことがありますが、こちらはカペラの1.5倍弱のチケット代を取っていたにもかかわらずだいぶ良くなかった記憶があります。)

しかしながら、手放しで絶賛できる演奏だったかと言われると、そうとも言いきれないように思われる部分もあります。その点について少し述べさせていただきたいと思います。

カペラの歌唱法は、ちょっと奇妙に聞こえるかもしれませんが、ある種日本的というべきか、とてもしっとりしたウェットな印象があります。というのは音が鳴り出してからそれが充実した響きに成長するまでに一定の時間を要する歌い方をしています。

これは例えば80年代後半以降のヒリアード・アンサンブルなどにも見られる歌唱法に通じるものと思いますが、複数の息の長い旋律が絡みあいながどこまでも協和していくフランドル楽派の音楽には時として威力を発揮するものだと思います。しかし、ホケトゥスとシンコペーションのノートル・ダム・ミサに対しては単純に考えて不利に働くのではないかと予想できます。

そこで、このあたりどのように歌うのかということについて大きな興味を持って会場に行ったのですが、どうもそのことを気にかけてる様子はあまり感じられませんでした。そして、実際に、全曲中最も盛り上がり華麗である部分の一つであるグローリアのアーメン・コーラスの部分などでは、ぶっちゃけ何をやってるのか良くわからない時間がありました。これは、石造りの大聖堂に近い、鉄筋コンクリートの建物の、長い、というか、包みこむような残響のせいとは言いきれないと思いました。

(まあ、でもこれは、私が構造を明確にすような演奏を偏愛してるからこういう感想が出てくる、というのはおおいにありますが…。でも、Ensemble Gilles Binchois の演奏なんかを聞くとこういう柔らかい歌い方でもホケトゥスを美しく聞かせることは不可能でなさそうに思えるのですが、どうなのでしょうか?)

そして演奏自体についても、ベースとなってる技量はわが国トップレベルと言って間違いない団体なのでうまいのですが、どうも今一つ音楽に乗りきれてないような印象が最初から最後まであったのは残念です。もちろん近代音楽をやるみたいに過度にドラマチックになるのは変ですが、あまり禁欲的なのもどうかと思います。

そのせいか、しばしば下行音型などの音楽が緩む方向に行く部分で、トリプルムの音程が下がり気味になるのがだいぶ気になりました。私は、声楽団体に機械のように正確なピッチを求める人ではないですし、音楽が十分に動いていれば多少の「狂い」は気にならないものだと思いますが、それがやはり気になったというのは、本当に停滞気味だったのかもしれません。

そんな風に若干煮え切らないものを感じながら、Ite missa est まで終え、その後、アンコールのデュファイの Ave regina coelorum が始まったら、まさに水を得た魚のようにポリフォニーが動き出しました。これを耳にしたときは、「やっぱりカペラってこうだよね」と思うと同時に、中世音楽ファンとしてだいぶ複雑な心境になりました。「マショーはぎりぎり専門外?」とも思いました。

カペラの実力からすれば、この日の演奏の2倍良い演奏ができると思います。もし今後、5年後でも10年後でも、再びこの曲を取り上げることがあったなら(是非そうしてほしいです)、デュファイやジョスカンやラ・リューの演奏に匹敵するようなものになってほしいと思います。

さて、音楽監督の花井哲郎氏がプログラム・ノートにも書かれていることで、この日の演奏に関して面白いと思った部分を二つ紹介したいと思います。

一つ目は Kyrie です。
周知の通り Kyrie eleison を三回、 Chiriste eleison を三回、再び Kyrie eleison を三回唱えることになっています。
素直に考えてノートル・ダム・ミサにおいても対応する回数だけ繰り返すことになるわけですが(正確には最後の Kyrie だけは直前のものと異ります)、多くの演奏では冗長さを避けるためかグレゴリオ聖歌を差し挟んだりします。しかし、この日の演奏では全ての繰り返しをマショーの音楽でやりました。(しかもちゃんと毎回微妙にニュアンスを変えてます。)これは非常に面白かったです。まうかめ堂でも将来的に使わせていただこうと思いました(笑)。

もう一つはグローリアとクレドのマクシマです。
この両曲において、当時の最長の音価であるマクシマを用いることで特に強調されてる部分が四ヶ所あるそうです。そのうち、ex Maria viegine と二回の Jesu Christe を強調することはどの演奏でもやられていることですが、グローリア冒頭の Et in terra pax をこれほど引き伸ばしてみせた演奏はなかなか無かったのではないでしょうか。これはとても新鮮でした。

感想は以上です。

maucamedus at 18:25 │Comments(3) │TrackBack(0) │中世音楽 

この記事へのコメント

1. Posted by がむと    2005年01月08日 20:39
まうかめ堂さんの解説、興味深く読ませていただきました。

やっぱりなんというか、ちょっと想像していました。一番はらはらしていたのはやっぱりあのグローリアのアーメンですね。あれは中世のホケトゥス技法が到達した最後の極みだと思っています。(そういえばマショー以後のホケトゥスはどうなっているのでしょう)

マショーのキリエはそのうち作る予定です。実はちょっと打ち込んではみたのですが、結構曲想が難しいですね。フランドル楽派のミサなどに馴染んでいると、逆にギャップが大きいとはいえるのかもしれません。

「さる有名なバッハの演奏団体」がノートル・ダムというのもすごいですね。別に演奏してはいけないとは思いませんが、なんでまた、という気も確かにします(その前にフランドル楽派を、という気もします(笑))……。モンテヴェルディは結構よかったですよね。

感想どうもありがとうございました。まうかめ堂謹製のノートル・ダム、楽しみにしています。我無人謹製は奇演系になりそうな予感が……
2. Posted by Myoushin    2005年01月09日 05:11
感想どうもありがとうございます。

私は、まうかめ堂さんの感想を読んで何時の日にか聞きに行ってみたいと思いました。ミサ曲を祈りと捉えるか、音楽と捉えるかによっても評価は違うかなとも感じました。

私がマショーのノートルダムを始めて聞いたのはタヴァナー・コンソートのCDで、この演奏のイメージが強いので他のグループのものでは違和感があって困っています(^^

この先入観との戦いほど難しいものはないかもしれません。色々な意見(異見)がなければ面白くないし発展もないと思います。

知的な刺激を受けることが出来て楽しい想いを暫し味わえました。有難うございます(^^
3. Posted by まうかめ堂    2005年01月09日 21:44
みなさま、いつもコメント頂きありがとうございます。

お二人のコメントを読んでいろいろさらにコメントしたいことが出てきたのですが、ホケトゥスとタヴァナー・コンソートのノートル・ダム・ミサについては長くなりそうなので別に言うことにして、ここではいくつかレスをしたいと思います。

> 結構曲想が難しいですね。
> フランドル楽派のミサなどに馴染んでいると、
> 逆にギャップが大きいとはいえるのかもしれません。

ええ、まさにその点なのかもしれません。ひょっとすると、カペラの方も実は戸惑っていたのではないでしょうか。

> 「さる有名なバッハの演奏団体」がノートル・ダムというのもすごいですね。

「だいぶ良くない」なんて書いてしまいましたが、実は、ノートル・ダムの方はまだ良かったんですね。ペロタンがどうにも…という感じでした。

逆に言うと、ペロタンを音楽的に聴かせることは、至難であるらしいということがわかりました。他にも中世・ルネサンスを専門とする団体のペロタンの生演奏をいくつか聴いたことがありますが、どれもしっくりきませんでした。

> この先入観との戦いほど難しいものはないかもしれません。
> 色々な意見(異見)がなければ面白くないし発展もないと思います。

さすがに中世の音楽ともなると、誰がどんな理屈を並べたてようともオーセンティックな演奏というものは存在しえないわけですね。最終的には、ものによっては一見不可解で奇妙とも言える音楽を、様々な状況証拠を鑑みて当時の演奏の様子を探りながら、どうやって現代に蘇えらせるかということに行きつくわけです。(残された楽譜という媒体はいわば「音楽」をやるための触媒のようなものだというさらに極端な立場もありますが…。)

それゆえ当然のことながら無数の答がありうるわけですが、その中でどれが「良い」のか、いかなるものが説得力を持ちえるのか、を判断、評価するのはとても難しいことのように思います。最後はほんとに「好みの問題」なのかもしれませんが、安易にそこに落としてしまうのもだいぶ抵抗があるんですよね。

一方、日本の古楽の批評家が中世音楽に対して設けるストライク・ゾーンは狭すぎる感があります。

ただ、こういうことって、ある程度古い音楽なら状況は全く一緒で、現在、一般に「オーセンティック」と思われているものが幻想である可能性も十分あるわけで……

段々、厄介な話題に足を踏みいれつつあるので、このへんでやめます。

2005年01月10日

ホケトゥスのはなし

昨日、がむとさんからホケトゥスに関してコメントがありました。

> (そういえばマショー以後のホケトゥスはどうなっているのでしょう)

マショー以後ということで、すぐに思いつくのは Ars subtilior ではソラージュあたりでしょうか。
彼は世俗シャンソンしか残してませんし、マショーほど凝ったものはないけれども結構わかりやすいホケトゥスを使ってますね。

他にも Ars subtilior の曲には、クロスリズムの、複雑な、ホケトゥスと言ってよいのかわからないようなものは沢山みつかるのではないかと思います。

また、マショー並に巧妙なホケトゥスを用いた人としてチコーニアが挙げられると思います。彼の幾つかのモテトゥスにおける華麗なポリフォニーは驚嘆すべきものではないかと思います。

それで結局いつごろまで用いられたのかということについては、前にコピーしておいたニューグローヴの「ホケトゥス」の項を見てみたら、「ホケトゥス(の技法)は、新しい作曲の概念が生まれ、それが時代遅れで不適切と見なされる1400年頃まで滅びることはなかった」、とあるので、そうなのでしょう。

さらに、「最終的に、15世紀初頭にイタリアの作曲家とイタリアの影響を受けた作曲家による作品(例えばチコニア、セザリス、グレノンの作品やデュファイの<ラッパを伴うグロリア Gloria ad modum tubae>)では、ホケトゥスの技法は模倣的な交唱に姿を変えている。」とあります。

この辺は Canonici 写本で確認できそうですね。実際、この箇所で引用されてる曲がセザリスのモテトゥス A virtutis/Ergo beata/Benedicta という曲でこれは Canonici 写本にのってます。

このセザリスの曲や「ラッパのグロリア」についてはホケトゥスと呼ぶのは多少抵抗あるかもしれないけどチコーニアはいいんじゃないかという気もします。

まあ、ホケトゥスの定義によりますが…。


それから、まうかめ堂的に面白いのが、ホケトゥス的な技法を用いた作品を書いた20世紀の作曲家として言及されているのが、ウェーベルン、フェルドマン、バビット、ケージであることです。

バビットにはそういう例がすぐに見付かりそうですが、フェルドマンとケージはよくわかりません。しかし!ウェーベルンは違うでしょう。

いや、でもやっぱりずるい書きかたしてますね。
「ホケトゥスに類似した技法はアフリカ音楽にも確認されており、休止と沈黙は、ウェーベルン、フェルドマン、バビット、ケージら、現代の作曲家たちによる作品でも有効に使われている。」

「休止と沈黙は」という言葉だけで、ホケトゥスからずいぶん離れたところまで飛躍しちゃってます。こういうの、ほんとに誤解を招くと思うんですが…。


そう Theatre of Voices の、その名も 'Hoquetus' というディスクのヒリアーによる解説にも現代作曲家の名が挙げられています。

'More recently the technique has been reactivated by composers such as Gyorgy Ligeti, Conlon Nancarrow, Steve Reich, Kevin Volans, and Louis Andriessen...'

こちらはだいぶ納得がいきます。

でも、どちらの記述でも、一番に名前が挙がってきてよさそうなストラヴィンスキーが入ってないのは何故なんでしょうね?

(ストラヴィンスキーと中世音楽のあまりの類似点にまうかめ堂が心底びっくりしたという話はいずれどこかに書きたいと思います、)


maucamedus at 02:44 │Comments(2) │TrackBack(0) │中世音楽 

この記事へのコメント

1. Posted by がむと    2005年01月10日 23:00
ホケトゥスの解説、ありがとうございました。下手な解説を読むよりずっと参考になりました。セザリスのモテトゥス A virtutis/Ergo beata/Benedictaは、MIDIを作ってみようと思います。(この連休はからだの調子がなんとなく悪くて、MIDIはあまり作れませんでした……)

それにしても、偶然ですね。最近、ストラヴィンスキーを聴いていたら、なんだかラ・リューのミサ・ロム・アルメみたいに聴こえて来て、びっくりしていたんですよ。どうしてなのか、ということは全然分りませんが、テーマがありながらそれを次々と変化させてゆくという、ヴァリアツィオを、ストラヴィンスキーも使っているのかなあ、と(なんとなく)思っています。(どうもこういう構造理解というのは苦手で、いつかこれも克服しなければと思っているのですが……。)

2. Posted by まうかめ堂    2005年01月11日 00:16
> セザリスのモテトゥス A virtutis/Ergo beata/Benedictaは、
> MIDIを作ってみようと思います。

あ、それは良いですね。楽しみです。

> 最近、ストラヴィンスキーを聴いていたら、
> なんだかラ・リューのミサ・ロム・アルメみたいに聴こえて来て、
> びっくりしていたんですよ。

具体的に何を聴かれたのでしょうか?
(とても興味ありますね。)

私の場合、実は古楽よりストラヴィンスキーの方がずっと馴染があるので、中世の曲を聴いていて「これってストラビじゃないの」と思うことが多いですね。

というか、そもそも中世音楽にどっぷりはまるきっかけが、マンロウのマショーのディスクで、例えば Amour me fait desirer なんか楽器法も含めて「ストラビの歌曲そのものじゃないか!」と大層驚いて、それが「中世音楽のまうかめ堂」の出発点だったりします。

2005年01月11日

ノートル・ダム・ミサのディスク(1)

先日 Myoushin さんから、タヴァナー・コンソートのノートル・ダム・ミサの話が出たので少しこの曲のディスクの話をしたいと思います。

ノートル・ダム・ミサは、グレゴリオ聖歌を除けば、最も有名な中世音楽なので、星の数ほど録音があります。したがって、とても全体を把握しきれるものではないですが、私の知っている録音で他人に勧めるとしたら、次の二枚です。

1.Machaut: Messe de Nostre Dame, Taverner Consort & Choir - Andrew Parrott, Virgin Veritas 89982

2.Messe de Notre Dame de Guillaume de Machaut, Ensemble Gilles Binchois - Dominique Vellard, Cantus 9624

1.は件のタヴァナー・コンソートですが、1983年録音という20年前のものです。もとはLPだったようですが、Virgin からCD化されて出ていました。現在はそれも廃盤か在庫切れのようですが、Virgin の VERITAS Edition ということなので、待っていれば再発される可能性は結構あるのではないかと思います。

このディスクは、この曲を用いて14世紀の Reims の大聖堂で行われていたであろうミサの再現を目論でおり、ブックレットには教会の見取り図にソリストの立ち位置や合唱団の場所、マイクの設置場所などが書きこまれています。また、通常文のマショーのポリフォニー以外の固有文の部分をグレゴリオ聖歌で歌いそれを録音するというやり方は、このディスクが最初なのではないでしょうか?(この辺、私は詳しくないのどなたか御存知の方いらっしゃったら教えて下さい。)

さてこの演奏ですが、マショーのポリフォニー部分については、当時隆盛を誇っていた英国式ア・カペラ古楽の一つの成果とでも言えるものではないかと思います。4声のポリフォニーを4人で歌っています。このうち Roger Covey-Crump と Paul Hillier はヒリアード・アンサンブルの主力メンバーでもありますね。

そう、この演奏は英国のトップ歌手が、その持てる技術力を存分に発揮して、力技で歌いきったという感じの演奏です。テンポはかなり速く、歌唱法は輪郭のはっきりした、きわめて器楽的な演奏です。これだけくっきりしていればホケトゥスやシンコペーションの構造自体の面白さが聴こえるのはある意味当然かもしれません。もちろんそれを裏打ちする音楽理解や技量は必要と思いますが…。この演奏は、それを本当にやりきっているところが凄いです。

(でも、この数年後に録音されたヒリアードの演奏は、似たアプローチだけどあまり奮いませんでしたね。録音の悪さでもちょっと損をしてますし。)

またグレゴリオ聖歌の部分では、鐘の音が入ってたり、ソリストがマイクと反対を向いて祭壇の方に向かって朗唱してるさまがそのまま録音されていて、そのライヴ感がとても良いですね。

一方、2.のアンサンブル・ジル・バンショアの演奏は、1.より7年後の1990年に録音されたものですが、これの対極にあるというか、1.のアンチテーゼのような演奏です。

いや、そもそもアンサンブル・ジル・バンショアの演奏はその全てが、80年代に一世を風靡した「英国式ア・カペラ古楽」に対するアンチテーゼに聴こえるのですが、これについてその背景から述べようとするとだいぶかかるのでこれについては日を改めることにします。

maucamedus at 00:47 │Comments(5) │TrackBack(0) │中世音楽 

この記事へのコメント

1. Posted by がむと    2005年01月12日 00:35
僕はヒリヤードしかCDもっていないんですよ。タヴァーナーコンソートは聞いた事がありますが、聞いたころは中世音楽自体に完全に馴染んでいなかったもので、正直あまりよく分りませんでした。レコードではボストン・カメラータが割合いい演奏だったように思います。僕のお薦めはナクソスのサマリー指揮オックスフォード・カメラータの演奏ですが、まうかめ堂さんはどう思われますか。

キリエは写本では・|||・という記号が書いてあって、3回繰り替えしが意味されているのは確かなようですね。トゥルネーのミサでも、同じように3本線のリピート記号が書いてあります。キリエでグレゴリオ聖歌を挟みはじめたのは理由はわかりますが、誰が提案したというか、始めた
んでしょう。
2. Posted by まうかめ堂    2005年01月12日 20:46
> 僕のお薦めはナクソスのサマリー指揮オックスフォード・カメラータの
> 演奏ですが、まうかめ堂さんはどう思われますか。

オックスフォード・カメラータは良いですね。真正直なというか、素直な演奏で完成度がすごく高いのがこれですね。

廉価版の鑑とでも言いますか、これぞ NAXOS の古楽という演奏だと思います。

Kyrie もちゃんと繰り返してますし…。

このディスクの圧巻はむしろ長大なレーの方で、私はこちらの印象が強いです。現代的なバリトン歌手(響きを前に集めてピンと響かせるような発声の歌手)でも、マショーの、それも単旋律の長大なレーの魅力的な演奏が可能なのだということにハッとさせられました。

これもエマニュエル・ボナルトの演奏とほんとに好対照ですね。

> キリエでグレゴリオ聖歌を挟みはじめたのは理由はわかりますが、
> 誰が提案したというか、始めたんでしょう。

さあ、どうなんでしょう。(ちょっと私にはわかりません。)
これも、ベートーヴェンの交響曲の提示部は繰り返さないみたいな現代の慣習なのでしょうね。
3. Posted by Myoushin    2005年01月12日 21:14
NAXOSのディスクはBBC Radio3のマークが付いてるので(?)御墨付きなんですか(^^

私も色々ノートルダム聞いてみました。
Oxford Camerata (NAXOS)のは譜面に忠実にって感じで正道を行くようで好ましいものですね。

古楽でこれだけ種類が多く出ている楽曲はあまりないでしょうね。
マショーの現代にも厳然としてある影響に改めて気付きました。
いろいろなCDを聞くと自分自身の好みがわかって面白いです。
4. Posted by まうかめ堂    2005年01月13日 16:51
> NAXOSのディスクはBBC Radio3のマークが
> 付いてるので(?)御墨付きなんですか(^^

あ、ほんとだ。
5. Posted by がむと    2005年01月13日 20:24
ナクソスは自社以外の録音も多いそうですよ。その中には、放送局の録音スタッフと組んでいたりするものもあって、Oxford CamerataのマショーはそれでBBCのロゴがはいっているのだと思います。ひょっとするとEMSでも放送したのかもしれませんね。

2004年11月07日

Claude Helffer 追悼

これについて書くかどうか迷っていたのですが少し書きます。先月末に Claude Hellfer が亡くなりました。

非常に残念です。

ブーレーズの第三ソナタが完成する前にその弾き手が失われたことになります。(というかブーレーズは完成させる気あるのでしょうか?)

Helffer vs Boulez
Helffer vs Xenakis
Helffer vs Schoenberg
Helffer vs Bartok
Helffer vs Debussy
Helffer vs Ravel

日本では「ラモーからブーレーズまで」というキャッチフレーズで売られてたみたいですが、私的にはまず第一に、尊敬すべき20世紀音楽の弾き手でした。

私が最初に Helffer の演奏を耳にしたのはまだ高校生のころで、ブーレーズのソナタ集のディスクを通じてでした。

これを機にこのディスクを聞きなおしてみたのですが、やはりこれはブーレーズのソナタに関しての必須アイテムですね。
第一、第三ソナタについては私の知るかぎり最良の録音だと思います。
(第二ソナタに関しては、どうして「正確に」弾かなかったのか謎ですが、この点においてポリーニに一歩譲る気がします。)

私も若いころは第一第二ソナタみたいな、ブーレーズの若いころ(21とか23とかですよ!)の作品に魅力を感じていたのですが、今聴くと第三が異様に面白いですね。(意外なところで年を感じてしまいました(泣)。)

ケージの影響というか、ケージがちゃぶ台をひっくりかえすようなことをやってしまったあおりを受けて、「偶然性」を突き付けられることになったブーレーズが、初めて本格的に取り組んだ演奏者の選択によって形を変えうる流動的な構造を持った作品で、しかも計画だけ詳しくたてておきながら着手から50年に届こうという現在にも未だ完成してない、というものです。

ともするとその「可変性」にのみ目が行きがちかもしれませんが、こうやって響きに耳を傾むけてみると、音の厚みや密度、音域、装飾的な動き、など様々な要素が、どうやら非常に巧妙に配分されているらしいということに気付きます。

これはちょっと詳細に楽譜を調べてみたくなる作品ですね。そして、もし未完のまま終わることになったら惜しすぎる作品です。

しかも、多少中世音楽になじむようになった今となって見ると、五つの部分(formant)に付けられたタイトルがイカしてます。

A. Antiphonie
B. Trope
C. Constellation ou Constellation-mirroir
D. Strophe
E. Sequence

……

そういえば Helffer の話をしてたのでした。

実は20世紀の終わりに、とある地方都市で、Helffer の演奏を至近距離(せいぜい5メートル以内)で聴くという希有な体験をさせてもらったことがあります。

なかなか CD なんかで聴くのとは大違いなわけで、とくに印象にのこっているのは、フォルテ、フォルティッシモの打鍵がものすごく強い(ダイナミックレンジが広い!)のに音が壊れることなく届いてくることと、どんな複雑な音響、和音も鮮明に驚くほど透明にクリアーに聴こえてくることでした。

逆に、この経験の後は、CD を聴いても、「ここは本当はこういう響きなんだろうな」、と想像力が自動的に動きだすようになってしまいました。


maucamedus at 17:56 │Comments(0) │TrackBack(0) │音楽一般