すたんこ日記:2004年4月

帰郷のこと
きょうはこれから郷里に行ってきます。帰ってくるのは5月の5日か、場合によっては6日になります。

ちいさな私信ですが、ひとことだけ。

おたんじょうび、おめでとうございます。
2004年04月29日 10時53分28秒

酢だこんにゃくだ のこと
 中国で作戦の指揮をしていた方の自伝を読むことが終わったので、こんどは、国で仕事をしておられた方の聞き書き集を読んでいます。聞き書き集は印刷されたもので、1冊が200ページほどある聞き書きが40冊以上あります。1冊あたり3人から4人の方がお話をしていて、1回だけのお話で終わる方もあれば、座談会形式で何人もの方がお話をしていたり、何回もお話が続いているものもあります。これをよく読んで、話されている時代や項目、お話をしている人しか知らないであろうエピソードなどを決まった形の表にまとめるのが仕事です。
 はじめから「書く」という手段で表されたものより、語られたものを文字にしたものは、なんといいますか「目あたり」が違っておもしろいのですが、こうしてインデックスを作っておくと、よみものとして楽しい上に、必要な引用が早くできるようになります。このお話でしか知ることのできないことがらはたくさんあって、その栄養分というか、(歴史に)骨や肉をつけるのに必要な成分をわかりやすく表示するのも、アーキヴィストの大切な仕事です。

これまで読んできて、4回登場した言い回しに、
「酢だこんにゃくだ」
というものがあります。お話しているのはそれぞれ別の方なので、ある程度普遍性のある用法なのかもしれませんが、耳で聞いたことはこれまでありませんでした。
「酢だこんにゃくだとうるさいんでね、先回りして(話を)通しといたんですよ」
「また局長が酢だこんにゃくだと言いかねんので」
のように使われていることから、意味はなんとなくわかるのですが、なぜ酢とこんにゃくなのか見当がつきません。
 先生が研究室に来られたので、酢とこんにゃくということばを聞いたことがありますかとたずねてみたところ、先生は聞き取りの相手がそのような言い回しをするところに立ち会ったことがあるとおっしゃいましたが、酢とこんにゃくである理由はわからなかったということでした。
 あすから郷里に行くので、少し多めに仕事をしようと研究室に残っていると、先生は
「鼠にひかれないようになさい」といって帰り支度をはじめました。こちらのほうは、意味は知っているのですが「ひかれる」というのが「曵かれる」なのか「轢かれる」なのかイメージが浮かびません。帰りぎわの先生を引き止めて、どちらの「ひく」でしょうかとたずねたところ、そりゃあひっぱるのほうだろうよ、見たことはないのかいとおっしゃいます。うちで飼っていたハムスターはそんなことしませんでしたと言いかけて止めました。
2004年04月29日 00時13分35秒

猫がきた日のこと
 数日前、いま郷里で飼っている猫のことを書こうとしたところが、昔飼っていたちびの悲劇のことばかりで終わってしまいました。
 いま郷里で飼っている猫は、わたしが夏休みで郷里に帰っていたある日、玄関からのろりと入ってきました。暑いので玄関の戸を開け、風が入るようにあちこちの窓を開けて居間で横になっていると、玄関に気配がして、そのうち視界を白いものが横切って台所に向かったので、起き上がって追ってみると猫でした。逃げもせず、テーブルに乗ることもせず台所をうろうろしたあと、台所を横切って浴室に行き、折り返してこんどは台所を抜けて玄関ホールに行き、2階にのぼって行きました。「とりあえずごゆっくりどうぞ」と声をかけて様子を見ていると、猫はうろうろと全ての部屋をまわってまた玄関から外に出てゆき、その時はそれで終わりました。
 その日の夕方、家族が戻ってきて食卓についていると、さきほどの猫がまた玄関にやってきて、今度は大きな声で鳴きました。祖母に家においてくれるよう頼んだのですが、ちびのことがあったからもう猫はいやだと言います。その間も猫が鳴き続けるので、祖母が玄関から出そうとすると、たまたま任地から戻っていた父親が「犬は人につき、猫は家につく」と言い出し、そのようなわけで猫は家で飼われるようになりました。
 白い猫のわりには汚れがないので、迷い猫ではないかと祖母が周辺をたずねたところ、家にやってくる数日前、車から首輪を外した猫をおろし、そのまま走っていった自動車があることがわかりました。下校途中の小学生につかまり、水につけられたりぐるぐる回されたりしているのを見たという話も聞きました。そのようなわけなのか、この猫は小さなこどもが大嫌いです。
 夏休みの宿題のレポートで読んでいた本の著者の名前から、猫の名前はわたしがハンナと名付けました。今では「はな」と呼ばれています。
2004年04月27日 22時27分27秒

デルヴォーのこと
 土曜日は、お預けしていたバッハの本と歴史の本を届けに、遠くからお世話になった方が来て下さいました。アーキヴィストの見習いをはじめたころからずっとお世話になってきた方で、ご夫妻ともに、ここ数年数えきれない示唆をいただいています。お会いしたのはほぼ2月振りで、ずっと以前に日記に書いた「思い出ベンチ」を見てみたいということで公園を案内しました。 
 脚がよくなってから、はじめて公園をひとまわりしてみたところ、ベンチの数は日記に書いたころからずっと増えていました。よく散歩する側と池をはさんで反対側は、以前は砂利がしいてあって少し歩きにくかったのですが、いつのまにかコルク色のタイルが敷かれていて、埃が多いアスファルト舗装のこちら側より落ち着いた感じの空間になっていました。その空間の、見通しのよい池のほとりに、思い出ベンチが等間隔でずらりと並んでいる様子は、人が少ないこともあってなんとなくシュールな感じでした。ベンチのひとつひとつに、黒いワンピースを着た黒目がちの無表情な女の人を座らせると、デルヴォーの絵ができると思います。
2004年04月27日 00時12分06秒

続・記事しらべのこと
 たのまれていた新聞の記事しらべがおわりました。戦前の新聞の記事を見出しから検索できるデータベースは、検索の結果と紙面が実際の画像データにリンクされているので、同じ紙面の他の記事も同時に見ることができてとても便利です。検索の結果が記事本文のテキストデータとして表示されるかたちのデータベースは、フルテキスト検索という強みはありますが、その記事が紙面に掲載されていた時のイメージ、たとえばどの段にどのぐらいの大きさで掲載されていたのか、同じ日の同じ紙面にはどんな記事が掲載されていたのか、などを画面の上で知ることができません。また、新聞社が場所だけを提供しているかたちの広告は検索の対象になっていないという抜けもあります。ですが、現在の新聞社はこのようなデータベースと並行して縮刷版の刊行も行なっているので、紙面イメージや広告の調べものの手段が残されているということはできます。
 たのまれていたことがらの記事(戦争がひどくなったので、職業野球団が試合をやめて工場で働くことになったという記事)と同じ紙面にあったのは、都市のこどもが疎開で地方に分散してしまっているので、本来は地域ごとに中学校の受験学区が決まっている義務教育がおわったこどもは、来年は疎開先にある中学校に願書を出してもよいかわりに、試験はもとの住所に戻って受けること、という記事でした。
 義務教育がおわったあとの学校には、現在でもいろいろな選択肢がありますが、むかしは大学の予科学校や軍人になる学校に進むためには、義務教育がおわったあと、公立か私立の中学校という学校に進まなくてはなりませんでした。その試験は3月の上旬にありました。
 新聞にこの記事が載った翌年の3月には、試験を受けるために、疎開していたところからたくさんのこどもが都会に戻ってゆきました。また、中学校から内地(いまの日本)の学校に通う予定を立てて、だんだん航海が危険になっていた海を渡って内地に受験に出かけた外地(むかし日本だったところ)のこどももたくさんいました。
 あしたが試験の日だという日の真夜中から次の日の朝にかけて、東京には大きな空襲がありました。亡くなったり、行方がわからなくなってしまった人の中には、試験のためにがんばって東京にでてきたこどもがたくさん混じっているのです。
2004年04月26日 01時34分29秒

家の猫のこと
 郷里の家族の家では、白い猫を1匹飼っています。この猫は1995年の夏から家にいます。家にやってきた時の大きさから、おそらく同じ年の春先に生まれたものと思われます。今年の夏がくると、家にやってきてから9年経ったことになります。猫は12年をすぎると年寄りと言われるようになるらしいので、家の猫はまだ中年です。
 この猫は、わたしがものごころ付いたころから数えて、家で飼った2匹目の猫になります。家のアルバムには、毛糸で編んだショールを肩にかけたわたしと、非常に大きな縞柄の猫が並んで写っている白黒の写真がありますが、これがわたしが憶えている1匹目の猫です。写真では白黒ですが、実際にはオレンジ色の縞柄で、寝ていたこたつ布団の上にむちむちとあがってこられた時の脚の重さを憶えています。名前はちびといいました。ちびはじぶんの記憶の中からいつのまにかいなくなっているのですが、実際には倉に撒いておいた猫いらずを食べ物と間違えて呑んでしまい、たいそう苦しんで亡くなったと祖母が話してくれました。
 たいへん見事な縞柄だったので、ちびの皮は山の獣の毛皮を処理する方に頼んで保存してもらいました。ちびの皮は、ほかの山の獣の皮といっしょに紙にくるんで天袋にしまってあり、いっしょに天袋にしまってある雛人形を出して飾る時に、雛段の前に広げて虫干しをしていました。家のアルバムには、ちびの皮の目の部分にひもを通したものを肩から背中に背負い、雛段の前でにっこりしているわたしのカラー写真があります。
2004年04月25日 02時01分30秒

春の連休のこと
 来週からのことになりますが、春の連休には郷里に戻ります。郷里にはパソコンをもって行かないので、そのあいだは日記をお休みいたします。
 春の連休に郷里に戻るのは、おそらく2年ぶりです。現在しているアーキヴィストの見習いの仕事のほかに、さきおととしとおととしはもうひとつ、とても大きくて大変だった仕事をしていて、そのことで身体が空きませんでした。昨年の4月は、やっと退くことのできたお仕事の直後で身体が消耗してしまっていて、郷里の家族に姿を見せるのを控えました。
 きのう、郷里に電話をして母親に花ぐあいや山の様子をたずねたところ、さくらはもう終わり、山ではそろそろ早出の山菜が育ってきたころだということでした。山は例年より少し早いようです。5月には、毎年泊りがけで山遊びをしてゆかれる父親の知人がみえるので、いっしょに出かけて山の案内をして料理を作る手伝いが入るものと思われます。
 飼っている猫の日常をたずねたところ、(白い猫なのですが)毎日薄黒くなって遊んでいるようでした。どういう手管を使うのか、小鳥を捕っては居間を羽根だらけにして喰い散らかすことが春になってから3回もおきているので、おまえからも何か言ってやりなさいと言われました。この猫については、また書くことがあるかと思います。
2004年04月24日 01時25分59秒

月報のこと
 よいお天気だったので、きょうもお預かりした資料の虫干しをしました。前回の虫干しのおりは、段ボールの積みおろしや開封を助手さんに手伝っていただいたのですが、じつは助手さんは埃にアレルギーがあって、その日は午後じゅうずっとくしゃみをしていました。また大変な思いをさせてしまうのはよろしくないので、きょうはひとりです。みっしり中身のつまった十数箱の段ボールを、虫干し済みのものと整理中のもの(整理がすんでから虫干しをします)、きょう虫干しをするものとに積みなおしたところで、もう汗が出ました。アーキヴィストには体力が必要です。
 きょう虫干しのために開封した箱のなかみは、むかし満州にあった大きな総合鉄道会社が出していた調査月報でした。まだきちんと巻数を確かめていないのですが、分量と、もとのところに置かれていた配列を思い出すと、おそらくすべて揃っているものと思われます。この月報は、戦前から経済や貿易の講座を持っている大学には備えられていますが、はじめからおわりまで揃っているところはあまりありません。きちんと整理すればたいへん使いよい形で公開できるものと思われます。
 ですが、月報は湿気で綴じの金具がさびてしまっているので、手にとって読んだり、下向きにしてガラスに押し付けてコピーを取るとページが落ちてしまいます。紙はそれほどいたんでいないので、さびた金具を糸などに取り替えるか、半年分などをまとめて固い表紙で装丁すれば、しばらくは手にとって利用できるかもしれません。もしくは、もくじのなかみまで入力した目録を作っておいて、原本はマイクロフィルムもしくは画像ファイルにして大切に保管するという方法もあります。
2004年04月22日 23時32分07秒

葉ざかりのこと
 さくらの季節がおわって、つつじや花水木の季節になってから、いくら眠ってもふにゃふにゃした感じが続くふしぎな感じがします。字を読んだり、端末を操作したりしながら、うと、っとすることがおきるようになりました。窓から見える葉桜の緑をながめたり、研究棟をひとまわりしたりして、気分を元に戻しています。さくらの花が咲いていた時にはたくさん来ていたうそどりは、花が終わるといなくなってしまい、今は鳩の声がしています。研究棟の玄関に、つばめが来るようになりました。

 大学で研究のお世話になった先生から、大学でこれまで行なわれてきた記念講演会のテープを聴いて、それを文字として書き起こすお仕事を頼まれました。はじめの回は、かつて大学の学長を勤めておられ、今は亡くなってしまった先生の講演です。大学に入ったころ、その先生はもう学長をお辞めになっておられたのですが、礼拝や聖書を読む会には来ておられました。強い意志を持っておられるようなお顔で、いつも楽しそうにお話をして下さる先生でした。
2004年04月21日 23時53分45秒

記事しらべのこと
 2月の日記では、しらべものをするために新聞の縮刷版をかかえて大学の図書館をかけ廻っていたことを書きました。4月に入ってからも、頼まれた調べものは続いていて、こんどはデータベースがはいっている端末のまえで丸くなっています。
 新聞がデジタルベースで作られるようになってからは、契約を結んだ端末や学校のレファレンスなどで、さがしたい記事をフルテキスト検索することができます。フルテキスト検索というのは、検索したいことばを検索窓に入れると、見出しだけでなく、記事の本文の中からもあてはまる記事をひろってきてくれる検索方法です。検索の対象になる新聞記事はテキストデータの形でサーバにおさめられていて、検索の結果は、それぞれの記事の大きさや見出しレタリングのちがいにかかわらず、同じ字体と同じフォーマットで表示されます。記事に写真が添えてある場合、写真は別窓で表示させます。表示しないことを選ぶこともできます。
 戦前のように、新聞がまだ活字を組んで作られていた時代の記事を調べるのには、原紙を直接見るほか、マイクロフィルムや縮刷版しか方法がありませんでした。むかしの新聞紙は、保存によっては端からぽろぽろになってしまっていてゼロックスによる複写ができません。縮刷版にはさくいんが付けられていますが、新聞社によってはマイクロフィルムしか複製媒体が作られておらず、そのような場合は調べたい年月日をあらかじめ決めて、紙面をすべてチェックしなければなりませんでした。
 最近、紙面の画像データと見出し部分を対象としたデータベースをリンクさせた新しい媒体が作られるようになりました。じぶんが知っているところでは、現在のところ、明治期から昭和二十年までを網羅している新聞が一紙、昭和元年から昭和二十年までを網羅している新聞が一紙あります。どちらも複数枚のCDの形で一括して販売されていますが、画像の表示もふくめてすべての機能を利用する時には、大容量のハードディスクに移して使うことを前提としています。たいへん高価なものなので、所蔵機関はまだ限られていますが、さいわい近くに所蔵機関がありました。紹介状を書いていただいて、週末にせっせと通っています。
2004年04月21日 02時09分15秒

めをのこと
 ヤムヌアをもう一度こしらえようと思い、香菜を買うためにスーパーに立ち寄ったところ、たらのあらが並んでいたので買ってきました。塩味がついていない生のたらはあまり見かけません。よい機会だと思ってたらの韓国風汁を作りました。
 たらやいしもちなどやわらかい白身の魚か、なまずなどの大きな川魚を、だいこんやねぎを具にして辛子味噌とお醤油で味をつけた汁を、韓国語では「めうんたん」といいます。めうん、というのは、「(唐辛子がたくさん入って)からい」という意味で、たん、というのは「汁もの」という意味です。
 めうん、は、「からい」を表す韓国語の動詞の連体形です。ひとことで「からいです」と言うときは、連用形の「めを」に、「です」を表す「よ」を付けて、「めをよ」と言います。「です」などと悠長なことを言っている場合ではない時には、「めをををを!(辛いよう)」と叫ぶというのもありです。ですが、あえて韓国語で叫ばなくても、そのような状況は表情や悶絶の身ぶりから察してもらえます。
 しかし、一度からい味付けをしてしまったお皿から辛さを取るのは難しいうえ、すでに口の中がからくなってしまったあとで食事を続けるのは大変なことなので、いちばんよいのはいただく前にからいかどうか尋ねてみることです。韓国語は、平叙文の語尾を上げると疑問文になるので、たとえばいただきたいメニューを指して、「めをよ?」と尋ねてみて、からくないものをお願いすればよいのです。
 自分でこしらえたメウンタンは、辛子味噌を少し多く入れたため、すこしからさが強い感じになりました。少しお砂糖を入れて逆のほうにバランスをとるか、一度にいただくぶんだけをあたためる小さなお鍋に入れて、いただく時に溶き卵を入れてふわふわを作るかしていただこうと思います。
2004年04月20日 01時32分16秒

ソプラノの演奏会のこと
 きのうは、夕方から街の文化会館に出かけて、コロラトゥーラソプラノの方の演奏会を聴きました。歌い手はアメリカ出身の方で、ピアノは日本の方でした。ピアノの方は、街の文化会館で声楽の演奏会があると、だいたいピアノを弾いておられます。声楽の演奏会でピアノを弾く場合、ピアノのふたは閉まっていることが多いのですが、この方はすこし開けて弾きます。オペラのアリアなど、実際にはオーケストラといっしょに演奏される曲をピアノで弾くのにちょうどよい、はなやかな音で演奏をされる方です。
 演奏された曲目は、シューベルトの歌曲やロッシーニのオペラのアリアや、バーンスタインやアイヴズなどアメリカ出身の作曲家の歌曲などでした。アイヴズの歌曲が、やさしい感じで気に入りました。プログラムを見ると、この歌手の方はことし、メトロポリタン歌劇場でボルコムのオペラに出演されるようです。ボルコムがオペラを書いていたことを初めて知りました。 
2004年04月18日 19時50分30秒

ぬあのこと
 きのうは、寝る前にヤムヌアをこしらえておいて、きょうのお昼にいただきました。
 ヤムヌアはタイの料理です。ヤム、は「辛味と酸味による味付け」、ヌア、は「牛肉」を意味します。この辛味は唐辛子による辛味とにんにくによる辛味が合わさったもので、実際にヤムヌアはにんにくをたくさん使います。そのため、翌朝を心配しなくてもよい金曜日にこしらえて、週末にいただくことにしたものです。じぶんで作る時のヤムヌアの作り方は以下の通りです。
1、赤たまねぎとセロリを薄く切って水に放しておきます。
2、香菜をざく切りにしておきます。
3、にんにくを半割りにして芽をとってから薄く切り、さらにみじん切りにします。おろしてはいけません。
4、乾燥させた赤唐辛子から種を抜き、はさみでなるべく細く切ります。
5、ライムの汁を1個分しぼり、にんにくのみじん切りと唐辛子を加え、魚醤油(ナンプラー)を好みの塩かげんまで加えてあえ汁を作ります。
6、ローストビーフのかたまりを薄く切ります。切ってあるローストビーフの場合は細幅に切ります。
7、野菜とローストビーフと香菜をボウルに入れ、あえ汁をまわしかけしてよく混ぜます。
これでできあがりですが、自分で作る時には1日おいて、味がなじんだほうが好きです。

ヤムヌアとは全く関係がないのですが、小さいころ、字の書きかたを教わった時には、ひらがなの「ぬ」と「あ」をうまく書くことができませんでした。「ぬ」は1画目のあと2画目をはじめる場所の見当がつかず、「あ」は2画目を下で止めずに左回転させてしまい、「お」を逆にしたような形になってしまうのです。祖母もしくは母親に書き取りを強制されて直ったのですが、大きなます目の漢字練習帳の見開きがすべて、
「ぬあぬあぬあぬあぬあ」
で埋まっているものがまだ家にあります。
2004年04月18日 02時05分30秒

誤読のこと
 きょうは、以前に紹介した、「食べる」の使い分けをされる方の日記を読みました。南の島で作戦をしていた方や、中国で司令官をすることになった方の日記は、いずれも戦争のさなかに書かれたものです。また、じぶんは仕事に真剣でないのかもしれない、と書いておられた方の日記は、戦争がはじまる前のものです。この日記は、わたしにとって初めて読む戦後の日記です。
 文書や史料に触れる機会がほかの時代より少なかったので、戦後の数年は、戦中や戦前の時代よりも空気を描くことがむずかしい感じがします。両親もまだ物心がついていなかった時期なので、なにか同時代の記録はないかと考えて、神谷美恵子全集の日記と回想の巻を少しづつ読んで予習をしています。
 きょう読んでいた時期は、この方が大きな法令や組織の作成を終えて、世界の情勢を勉強しながら少し先の計画を考えはじめた時期でした。アメリカとソビエトと中国が、それぞれの社会観や国家観によって外交を始めた時期でもあります。

 日記にはこのころ、「ムーミンを読む」という記述がひんぱんにあらわれるようになりました。「帰宅してムーミンを読む。捗らず。」「日曜にて一日在宅、ムーミンを読む。」のように、なにか意思を持ってムーミンを読む時間を自分に課しているようです。はじめは(テレビを)「見る」の誤記を疑いました。ですが、この時代にはまだ家庭にテレビがなかったことを思い出し、「見る」の誤記の可能性はすぐ消えました。
 次に、ムーミンの小説版の存在を考えました。ムーミンを政策研究のために読むというのもおかしな感じがします。ですが、この疑問も、ムーミンを読まずにおとなになったわたしだから生じたものかもしれず、もしかしたらムーミンは児童文学の枠を越えて昔から広く読まれる作品だったのかもしれない、読んでおけばよかったなど、いろいろなことを考えながらページを繰りました。
 ムーミンを読む日々の記述が半月ほど続いたある日、「ムーミンの「国家と革命」を読む」という記述に行き当たりました。この題名には心あたりがあります。自分の中の書名リストを検索した瞬間、今までムーミンと読んでいた文字が、レーニンという文字の誤読であったことに気付きました。どうにもおかしいのをこらえながら、テキストファイルに検索をかけ、「ムーミン」と書いていた部分を「レーニン」に置換しました。
 しかし、テキストと逆の置換がじぶんの中で起こってしまいました。これほど激しい誤読をしたのが初めてだったためでしょう。いま頭の中では、偉大なるムーミンが歓喜するニョロニョロの大群に囲まれた中、片手を挙げて、「同志スナフキンよ!」と呼び掛けるイメージがぐるぐるしています。
2004年04月17日 02時36分52秒

続・ばあやのこと
 まうかめ堂さんから、ばあやのことをもっと書いてくださいというリクエストをいただきましたので、つづきを書きます。
 といっても、ものごころが付いた時、ばあやはもうとても年をとっていて、耳も目もだいぶん不自由になっていました。母の実家は広くて暗い大きな家なので、ばあやが廊下をゆる、ゆる、と歩いてこっちに向かってくるだけで、小さいころはもうおそろしかったのです。母が実家に季節の挨拶に行くと、わたしがすぐ帰る帰るといって泣き出すので、母は困っていたと聞きました。
 ばあやは、年を取る前は、ひたすらに働く厳しい人であったそうです。祖母(母の母)が花の苗を植えると、片端から抜いて野菜の苗に換えていたとか、家の目印になるほど見事であったさるすべりの木をひとりで斧で倒し、果物の木に換えていたという話を叔父から聞きました。その時ばあやが植えたのはいちじくとポウポウの木で、これは今でも残っています。
 ばあやの通夜と葬式のあいだ、わたしを含むひまご連は、ばあやが寝起きしていた部屋をあてがわれ、そこでおとなしくしているよういわれました。ばあやが息をひきとった寝具は片付けられていましたが、屏風が隅に残してありました。新聞やカレンダーなどから切り取った美人画を貼り混ぜた図柄だったことを覚えています。
 昨年の墓参りのおり、ばあやの墓から大きな山百合が生えていたのを見つけたとき、叔母は、ばあやはほんとうはきれいなものがいちばん好きだったので、だから花になったのだといい、みんなで花に手をあわせました。墓参りのあと、親戚がそろって夕の膳をとっていると、こんどは大きな黒揚羽がふさふさと座敷に入ってきました。だれからともなくばあやだということになり、それぞれが揚羽に自己紹介をしました。
2004年04月16日 01時23分23秒

ばあやのこと
 あしたは曾祖母の誕生日です。曾祖母は母の祖母で、いまから20年ほど前に、104才まで生きて亡くなりました。
 曾祖母のなまえは「きみ」だと思うのですが、「とら」と呼ぶ親戚もおり、どちらかはっきりしません。小さなころに大きな病気をしたので、「きみ」という名前を、強そうな「とら」に変えたのだと母は言います。どちらも正しいなまえだろうというので、墓銘碑には2つの名前が彫ってあります。ですが、私も含め、いとこたち(曾祖母にとってのひまごたち)はみな「ばあや」と呼んでいました。
 ばあやは母親の実家にくらしていたので、会うのは夏の墓参りや季節のあいさつの時でした。ものごころがつくころには、ばあやはもうよほど年をとっていて、曲がった背中のいちばん高いところより下に顔があるぐらいになっていました。年をとる前にはよほど豊満だったに違いない胸が、着物のあわせから細長く垂れていたのを見て、なぜかおそろしくなってしまって泣いた記憶があります。
 ばあやは100才をすぎてからおとろえてゆき、誕生日がくれば105才になる年の2月、寒い日の朝早くに亡くなりました。母の実家では、お葬式のあと、棺を一族の墓地に穴をほって収めます(現在はわかりません)。墓地は母の実家から道路を渡って少し歩いた林の中にあり、ばあやの棺は、集落のお葬式の時に使う柩車にのせて、家族と親戚と集落の方々が引いて墓地に運びました。柩車は木でできていて、車輪のついた壇に柱と屋根が付いています。白い紙や金色の紙をはさみで切って、花やまんじの模様を切り出したものをはり付けました。柩車からのびた白い布を持って墓地に向かったおぼえがあります。
 棺を土に収めるので、収めたところには墓石をたてることができません。墓参のときには、わずかな土盛りとお供えの跡を目印にしてお線香をあげます。昨年の夏の墓参のおりには大きな山百合が咲いており、いとこや叔母たちと驚きました。
2004年04月14日 23時02分07秒

つくろいもののこと
 気に入っていた帯状のショールの片方のふちかがりが、あれあれという間にほつれてしまいました。ワンピースの背中のホックにかがり糸の一部がひっかかり、少し急いでいたので力を入れて引っ張ったところ、かがり糸が引き出されたあげく切れてしまいました。引き出されたかがり糸に対して、引っ張られた布のほうはしぼになってしまい、もとの方向に引っ張りなおしても戻りません。悲しいのと自分に腹立たしいのとで小さくうぎゃあと叫んでから、裁縫箱から待ち針を出してきて糸を取ってしまいました。
 ほつれていないもう片方のかがり方を見ると、ごく細い糸をかがり用のごく細い針で縫ってあり、これと同じかがりを自分ですることは無理のようです。長く2つに折って使うショールなので、裏返してわきを縫ってひっくり返し、両端を縫っていない太幅のはちまきのようにすることも考えましたが、濃い黄色の布の両サイドにあずき色が入っているのが気に入っていたのに、はちまき縫いをするとその部分が縫いしろになって中に入ってしまいます。もう一度考えて、ほつれたほうの端を、ほつれたほうを布裏に向けて細く折り、その折り山をほつれていないほうの端にまつり付けることにしました。これだと、片方にあずき色の端を残すことができます。同じ色の糸が手許になかったので、黒の細いミシン糸と、絹縫い用の細い針を使って縫いました。
 縫い上げてみると、縫いながら糸を引きすぎたのか、縫ったところがなみなみとうねっています。縫い終わったのが少し遅い時間になってしまったので、これは明日、きりふきとアイロンで直るかどうかやってみることにします。
2004年04月14日 00時02分06秒

虫干しのこと
 きょうは、おだやかな風のある乾燥したお天気だったので、研究室の新しい史料の虫干しをしました。昨年の初夏にいただいたたくさんの本や雑誌です。戦争になる前の中国やソビエトのことが詳しく書かれています。
 ご自宅で史料を置いておられたお部屋が少し湿気ていたので、研究室に運ばれてきた時には、史料は全体に湿気を含んでおり、一部にはかびが生えていました。これをすぐ書庫に収めてしまうと、先住の史料に影響がでてしまうかもしれないので、これまでは助手さんのお部屋に置いていただいてありました。洋紙でできた本や雑誌の虫干しは初めてなので、きょうは様子見です。
 研究室の前のひさしの付いたベランダに新聞紙を広げてから、箱に入っていた本を取り出し、ほこりをはたいてからページを広げてうつぶせにしました。ほこりをはたく時にはついでにページを少しめくってみて、湿気による綴じのさびがないか、紙虫の巣や繭がないか確かめます。あとは、風で本が動かないように見張りながら、時間がたって日あたりが変わるごとに、日なたになった本を日陰に移していきます。風が夕方の気配になったらまた箱にしまって、その日の虫干しはおわりです。
 本をベランダに広げていると、通りかかった方々が目をとめてゆかれます。あまり手荒にしないでくださいとお伝えしてからページをめくっていただくのも、風を通す小さな効果があります。虫干しのあとは、薬品やガスに弱い種類の史料を別にしたあとで、燻蒸という殺虫と虫よけの処理をして、やっと整理に入ります。
2004年04月12日 23時19分46秒

お祭りのこと
 きのう予告をした通り、きょうは飛鳥山の水掛け祭りに出かけてきました。このお祭りは、以前は中野の駅前公園で行なわれていましたが、数年前に飛鳥山に場所を移しました。公園の中の小さな舞台のある広場が会場になっていて、7〜8軒の食べ物や飲み物の屋台と、国際電話の宣伝をするテントが出ていました。昨年より、食べ物の屋台が2つ3つ少なくなった感じがします。広場には入り口と出口がこしらえてあって、入り口でチャリティをして中に入ります。広場には、お店をしている方や係の方を除いて、だいたい100人ほどの方々が集まっていました。
 お祭りでは、2時間ほどかけて、いろいろな屋台をぐるぐる廻って料理をいただきました。
 はじめにいただいたのは、ダンパウという鶏肉と米の料理でした。調味料につけた鶏の脚肉を、サフランで黄色い色をつけた米と鶏のスープで炊いたものです。米には干しぶどうや木の実が混ぜてあり、鶏の脚肉をほぐして混ぜていただきます。これはお祝いやお祭りの時の料理です。
 次に、米の粉で作った指先ほどの小さな細長いお団子をココナツミルクに入れたものと、椰子砂糖のかたまりを包んだすべすべしたゆで団子をいただきました。これも、どちらもお正月の料理なのだそうです。すべすべしたお団子を口に入れると、すこしとろけた椰子砂糖のかたまりが出てきます。椰子砂糖は黒砂糖より甘味が濃くないので、かたまりが入っていても甘さはちょうどよい感じです。
 儀式やお祭りの時に、丸くてすべすべしたものを食べるというのは、再生や新生を意味するもので、東アジアから東南アジアに見られる習慣であると、むかし習いました。日本では、お月見の時にいただく里芋(これはすべすべの象徴)とお団子(これはまるまるの象徴)がこれにあたるそうです。丸い形は、むかし人は卵から生まれた、という創造神話の影響もあるそうです。
 このほかには、パパイヤのサラダと鶏肉の付け焼きをいただきました。おなかいっぱいの一日でした。
2004年04月11日 22時19分21秒

お祭りの予告のこと
 あしたは、飛鳥山公園というところで、水掛け祭りというお祭りがあります。ビルマ語では「ダジャン」といいます。これは、小乗仏教という信仰を持つ方々にとってのお正月にあたる儀式なのだそうです。お祭りは毎年決まった日に行なわれるのではなく、月の満ち欠けによっているので毎年変わります。小乗仏教の祝祭日を国の祝祭日に取り入れているところでは、その日がお休みになるのだと思いますが、日本では日曜日にあわせてお祭りを行うようです。
 お祭りでは、女の人は黄色い藤のような花を髪に飾ります。また、舞台を作って歌や踊りをしたり、お祭りの時に作っていただくごちそうの屋台が出たりします。いろいろな地域の屋台が出るので、おなかをすかせて出かけなくてはなりません。プロフィールのさいごのほうにでてくる「シャンそば」と「アラカンそば」という料理も、このお祭りで初めて知ったおいしい料理でした。インド料理のナンのようなものを揚げてお砂糖をまぶしたものや、ミルクを入れて甘くした紅茶や、ドリアンの香りをつけたココナツミルクのおしるこなど、甘いものの屋台もあります。 
2004年04月10日 23時58分03秒

白くて細いもののこと
 お仕事をしている研究室の近くには、韓国料理の食堂がたくさんあります。食堂は、韓国語ではシクタンといいます。クの音とタの音が連続すると、クのほうの母音が省略されて、シッタン、のように聞こえます。食堂でお昼ごはんとして出しているのは、小さな石鍋で煮込んだ豆腐のスープや汁ごはんなど、韓国の食堂でふつうにいただくことができる料理です。夕方をすぎると、テーブルにこんろを置いて焼き肉や鍋物をいただくことができます。
 韓国に出かけて食堂に入って注文をすると、注文をした料理のほかに、小さなお皿に何皿かおかずがついてきます。研究室の近くの食堂はこの習慣を日本でも続けていて、大根や白菜のキムチがひと皿と、野菜を使った辛くないひと皿が出てきます。
 水曜日にごはんに出かけたところ、その日のおかず皿は大根のキムチと、白くて細いものをいためたようなおかずでした。白いものをいただいてみると、少し固めのさくさくした歯ごたえです。何を材料にしたものか見当がつかないので、料理を運んで来た方に「これは何ですか」と韓国語でたずねたところ「おかずです」という答えがかえって来ました。「おかず」は韓国語でパンチャンといい、その中でも料理の前に出てくる小皿のようなものをミッパンチャンといいます。お皿を指差しながらたずねたので、食堂の方はきっと、「注文していないものが出て来たのですが、これは何ですか」のように受け取ったのかもしれません。
 よく味わってみたところ、白くて細いものはじゃがいものような見当がします。ナムルのようにゆでて味をつけたものか、炒めて味をつけたものかはわかりませんでした。
2004年04月09日 23時45分21秒

継続コレクションのこと
 アーキヴィストの見習いとして、所蔵資料のデータベースを作っているところでは、今でもすこしづつ本や文書や写真などを集めています。また、ご家庭に保存されていた資料を下さる方や、作成された資料集や書き物などを下さる方もあります。ここに所蔵されているコレクションの中心になっているのは、むかしは日本で、いまは外国になっている地域の本や文書などです。
 むかし、この地域には日本からたくさんの人が移り住んでいました。たくさんの学校があり、行政をするための大きな組織があり、日本の大きな会社の支店や、ここに本店をもって外国と取り引きをする会社もたくさんありました。戦争が終わると、ここで生活をしていた方々は(いまの)日本に戻って行きましたが、同窓会や社員会を作って連絡をとりあっていました。その中で作られた刊行物、たとえば思い出を集めた文集や、同級会の記念誌なども、とても大切なコレクションです。
 いまは外国になっている場所なので、ここに住んでおられた方々の会には直接つながる後輩がおられません。そのため、みんなが年を取ってしまって、これまで作ってきた文集をおしまいにします、という案内といっしょに、少し多いページ数になった最終号を送ってきてくださることが、昨年から今年にかけてありました。大きくなってから入学する上級の学校では、戦争がおわった年に一年生だった方も80才近くになってしまうのです。
2004年04月08日 23時57分56秒

コートのこと
 おととい、さくらの花枝をかかえて帰った時に、着ていたコートに枝の脂がついて茶色くなってしまいました。その日のうちにクリーニング屋さんに急いで出したところ、もしかしたら落ちにくいかもしれないといいます。打ち合わせて上になるほうの身頃の胸のところなので、しみぬきをお願いしました。あとさきを考えないでものごとをするのでこうなるのだと思います。今すぐ着られるようになっている春のコートがこのコートだけだったので、戻ってくるまでのあいだは冬の上着を着てすごすことにしました。
 昨年の冬から今年の初春までは、紺色のスクールコートのような毛のコートと、茶色にいろいろな色糸のはいった杉綾のコートを交代に着ていました。おととしは、蒙古やぎの梳き毛でできた身頃に、沼いたちの毛皮が袖先と前立てとフードの裏につけてある明るい茶色のコートを着ていました。このコートはいただきものでしたが、袖とフードのすべすべしたところをビロードだと思い込んでいて、ほつれたところから皮が見えて驚いたことを憶えています。毛を短く刈って、綿毛が表になるように作ってあるものでした。
 フードの裏につけてある毛皮は、自分をあたためるのにはあまり役立ちませんでした。フードはとても大きいので、かぶると前が見えなくなってしまうからです。そのかわり、人の手をあたためるのには少しだけ役立ちました。おととしの冬は思い出深い冬だったので、このコートをこの冬着ることはありませんでした。そのうち、出して着る年も来るだろうと思います。
2004年04月07日 23時04分57秒

用例のこと
 うなぎの時だけ「たべる」を使って、あとは「食べる」という表記を日記の中でしていた方の日記の、これまで抜けていた部分が見つかりました。戦争が終わって少したったころからの数年分です。この方は、戦争がおわって憲法があたらしくなったあと、あたらしい憲法にあわせて、いまでも大切な役割を持っているいくつかの法令のもとになるものを作る仕事をしました。また、その法令にもとづいた行政をするための組織を作り、さまざまな機会に予算や人数を増やしながらこの組織を大きくしました。この方を組織の中で知っておられた方が、この方が書かれたものや集めて来られたものの分類に来て下さった時、先生が人となりをたずねてみたところ、「私たちにとっては神のような先輩でした」という答えが返って来たよと仰っていました。
 これまで書き起こしていた部分は、見つかった部分のあとに続く部分でした。新しく書き起こしている部分には、処刑が行なわれた、とか、配給を取りに行く、とか、GHQに会う、という記事があって、戦争が終わってまだ年月がたっていない実感があります。
 ある日の日記には、住民からはあまり好まれない施設を建設する予定を立てたところ、住民の方が陳情にやって来たので、上司といっしょに土地をたずねて折衝をしたという記事がありました。この折衝はうまく行ったようで、「うな丼とうな重をたべる」という記述で締めくくられていました。「うなぎ=たべる」の最初期の用例です。この年の日記には、なにか物を食べたことに関する記述はこれしかありませんでした。
2004年04月07日 01時04分37秒

さくら道中のこと
 きょうはお仕事をお休みして、先生にお借りしていた本を大学の研究室に返しに行きました。大学には歩いて行けます。脚が痛かったころはバスに乗っていましたが、やっと歩いて行けるようになりました。
 研究室に行くと、先生はいつものように部屋の奥で、ぬっと椅子にかけて書き物をしておられました。本を棚に戻したあと、研究の話を少しして、先生が会議に出かけるのを見送ってから研究室を出ました。
 久しぶりに大学に立ち寄ったついでに、敷地の奥の、はなももと八重桜がきれいな場所に寄ってみました。この場所は、大学の創設者の先生が住んでおられた家の前庭にあたるところで、今は外国から招聘された研究者の方が滞在するすまいになっています。
 途中、学校の庭の手入れをする係の方が、大きな八重桜にはしごをかけて、まっさかりに咲いている桜の枝をどんどん切り落としているところに出くわしました。校内のあかりを増やすので、枝がかかってしまうところを落としているのだそうです。落とした枝はどうするのですかとたずねると、あすの入学礼拝に活けるぶんを除いては捨ててしまうといいます。いただいてもいいですかとたずねるとどうぞという返事がかえって来たので、男の人の親指ほどの太さで一メートル半ほどの長さの枝を七本抱きかかえて校門を出ました。
 あちこちに小枝を張っていて、しかもそれぞれの枝にたわわに花のついた大枝をまとめてかかえて、向い風にふらつきながら裏道を歩いていると、うしろから自転車のベルとあらあらという声がきこえます。こんなにどうしたの、とうしろから来たおばさんがたずねるので、学校からもらってきましたと理由を話し、ついでに大枝をひとつ差し上げました。どうやって持っていくのだろうと案じていると、おばさんは自転車のサドルのうしろと後輪のあいだに大枝を深く差し込んで、なんというか、桜色の孔雀が自転車をこいでいるような姿で走って行きました。
 だんだん重くなって来た腕と肩を気にしながらもう少し行くと、前からおじいさんとおばあさんがやってきました。杖をついたおじいさんの散歩に、おばあさんが付き添っているようです。道のまんなかを歩いていたおじいさんが、こちらの枝ぶりに気付いていっしょうけんめい道の端によけて下さるので、申しわけありませんので一枝さしあげますと言うと、大きいのは持てませんのでとおっしゃいます。中くらいの枝をいくつか折り取ってさしあげました。
 枝を前にかかえる姿勢が限界に近付いてきたので、家につづく最後の道の信号で、枝をかついで肩で息をしながら青になるのを待っていると、となりにベビーカーを押したおかあさんが立ちました。目があうとにっこりして下さったので、花瓶に入るぐらいの小枝を、いくつも折り取ってさしあげました。
 ようやく家にたどり着き、大家さんの呼び鈴をならすと、大家さんはあらまあと驚いてから、さっそく手当てを始めて下さいました。まず、枝ぶりのよい大枝をいくつかに切って、おとなりのおばあさんに届けました。90才をすぎて歩くのが大変になっていて、今年はお花見をしていないでしょうからということです。次に、日本画をしているというお友達を電話でよんで、描きやすそうなところをどうぞといって持っていってもらいました。のこりの枝は大壷に投げ入れにして玄関に置いたり、枝の下の水に浸かりそうなところを摘んで、グラスに入れて食卓に置いたりしました。桜のいのちも喜んだかもしれません。
2004年04月05日 23時49分01秒

かつお梅のこと
 つくり置きしてちびちびなめていたかつお梅がなくなってきたので、花かつおをたくさん用意して作ることにしました。梅干しは、毎年郷里から祖母がこしらえたものが送られてきます。祖母が作る梅干しとかりかり梅はあちこちで評判がよく、庭の梅でたりない分を近くの方から分けていただくほどです。ですが、梅干しでも年数がたって塩粒が出るぐらいになったものはあまり好まれなくなるので、それを送っていただいて加工して少しづついただくのが、家の梅壷を次の梅のために空けるよい方法だと思っています。
 かつお梅は、種をとった梅肉と、梅といっしょに漬けてあった紫蘇を、まな板の上で包丁でよく叩いてから入れ物に移し、かつお節を少しづつ混ぜて作ります。手順は簡単ですが、叩いた梅肉とかつお節を混ぜるのには少し力がいります。かつおの風味と梅の風味がよい割合になるためには、かなりたくさんのかつお節を混ぜなくてはなりません。かつお節の量が増えてくるとかつお節で箸が取られるようになり、菜箸が折れることがあるので、さいごはステンレスのバターナイフで混ぜています。きょうは梅干し30個ぶんの梅肉に、3グラムづつパックになっているかつお節を17袋使いました。
 こしらえたかつお梅は、ごはんにのせていただくほか、角切りにした大根にあえるとよく合います。梅肉を外した種はとっておいて、さかなを煮るのに使います。
2004年04月04日 23時00分04秒

道のこと
 日比谷線の神谷町駅を桜田通り側に出て、桜田通りを芝のほうにゆるく上がっていくと、芝方面にむかって右に、大きな黒い屋根のお寺のような建物があります。その建物に続くようになっている小さな道に入って、建物を通り過ぎて歩くと、小さな道は石段になって上に続いています。石段をのぼり切ると、のぼり切ったところは小さな道のはじまりになっていて、フランス料理のレストランがそばにあります。
 六本木駅を外苑東通り側に出て、外苑東通りを芝のほうにゆるく下りてしばらく行き、飯倉片町の交差点をすぎると、芝方面にむかって左に麻布郵便局があります。麻布郵便局のわきの小さな道を入って、麻布台別館の前を通って少し行っても、おなじ場所に着きます。
 小さな道は、フランス料理のレストランを起点にして、麻布台の下にゆるく曲がって下りていきます。下りきって家並を少しすぎると、こんどは城山ヒルズの高台に向かう、まわり込むように続く急な坂道になります。小さな道は城山ヒルズでおわりで、城山ヒルズを抜けてエスカレーターで桜田通りに下りたり、ホテルオークラの前を通って虎の門の坂道に出たりすることができます。6年ほど前、アーキヴィストの見習いとして、はじめて仕事をするようになった場所が、この道の近くにありました。
 小さな道の起点には、大きなさくらの木があります。花のおわりごろ、石段にはなびらが降るのがとてもきれいで、よく歩きました。歩くと、東京は、じつはたいへん起伏の多い土地であることに気付きます。また、六本木から麻布のあたりの裏道には、少しこわい感じのするなにか不思議な気配がたしかにあることにも気付きます。人も車もまったく通らないこの道には、うまくたとえられませんが、キリコの絵のような、おそろしくて心細い磁場がありました。
 4年前の春の日の夕方、いつものように小さな道を歩いていたら、道の向こうから人があらわれました。白と水色の縞のラガーシャツを着て、軽くうつむきながら歩いてきます。大学のころ、いっしょの音楽のクラブでいっしょに指揮者をしていた、同じ学年の男の子でした。大学を終えた年に命を断っていて、それから2年半近くがすぎているのですが、それでも、軽くうつむきながらこちらに向かってたしかに歩いてきて、すれちがって向こうに歩いて行きました。何かを考えているふうの真面目な顔をしていたので、声をかけることができませんでした。
2004年04月04日 01時48分45秒

すいかずらの花のこと
 2月の日記で、アニック・グタールの香水のことを書きました。プロフィールでお気に入りとして書いた、スソワール・ウ・ジャメのことだったと思います。
 あれから、アニックの香水はじわじわと増えてゆき、棚の上には5本のびんが並んでいます。この会社の香水は、どれも同じ形のびんに入っていて、なまえをかいた紙の札と色リボンがびんの首に結んであります。
 今、気に入っているのは、すいかずらの花の香りのする香水です。なまえはシェブレフォイユといいます。すいかずらは、英語でハニーサックルといったり中国語で金銀花といったりすることもあり、5月のおわりごろ、垣根などにからまって白い花を咲かせます。咲いているすいかずらの香りは甘くてぽったりした感じですが、シェブレフォイユはそこに青草の先のような香りが足してあります。うまく表せませんが、澄んだ、しずかな香りです。
 アニック・グタールというのは、この香水を作った人の名前です。フランスで生まれ育った人で、ピアニストをしながら香りを作っていたそうですが、大きな病気をして早く世を去ってしまいました。
2004年04月03日 01時35分42秒

とりかえのこと
 PHSを、あたらしいものに買い替えました。(電話番号などは変わっていません)こんどの電話機には小さなカメラがついていて、撮ったものをメールで送ったりすることができます。自分で着信音を作ることはできないのですが、MIDIファイルをダウンロードして着信音に設定することはできるそうです。まうかめ堂さんにお願いして、鳥の声のような曲をふたついただきました。さっそく楽しんでいます。

 月がかわったので、プロフィールのところの写真をとりかえました。うつっているのはいとこの家族たちです。
2004年04月02日 00時31分23秒


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