すたんこ日記:2004年6-7月

見つけもののこと
 アーキヴィストの見習いをしているところのひとつで行なっているのは、マイクロフィルムに撮ってある資料の画像をtifファイル(軽めの画像ファイル)というかたちに変換して、資料のタイトルや書誌データといっしょにパソコンの端末で見られるようにするという作業です。
 マイクロフィルムを資料の内容別にわけて、どの内容のものから作業にとりかかるかの選定作業をはじめたのは昨年のはじめのことでした。インスペクションもかねた書誌データのとりなおしが終わったのが4月の末で(といっても、作業は毎日行なっているわけではなく、また、虫干しや急なレファレンスが入ることもありますので、正味の作業時間は週に10時間ほどです)、そのデータが入力仕様に合っているかの確認が終わったのが7月のはじめ(この時期は虫干しで工程がのんびりしました)、検索につかう項目を何にするかを最終的に決めたのが7月の中ごろでした。7月中旬にはtifファイルに転換された画像をおさめたディスクが届き、現在は実質的な作業としてはさいごとなる、画像と書誌データをつきあわせてのチェックが必要な箇所のチェックと、画像を資料のまとまりごとに切る作業を先週末から行なっています。資料と資料の切れ目がはっきりしているものについては、検索システムを構築していただいた会社でも作業をしてくださっているので、こちらでチェックをしなければならないのはディスクで7枚ぶん、文書2枚を1コマとして撮影されているページ数でごくおおざっぱにいって1万9千コマです。マイクロフィルムをリーダーにかけてプリントアウトするときにはB4の紙を使うので、1万9千枚のB4の紙をたてよこに並べたらどうなるだろうと思って計算してみたところ(たて100枚、よこ190枚、B4のたてを36センチ、よこを25センチにすると)、たてが36メートル、よこが47、5メートルということになりました。面積にするとおよそ1710平方メートルです。だんだん単位があやふやになってきましたが、これは坪でいうと517坪、反でいうと1、72反にあたるようです。なんだか実感がわきません。
 この枚数の画像をディスプレイの上でチェックしていくのですが、これまで何度もチェックをしてきた上の最終チェックなので、気を付けて見るのは色のぐあいと、書誌データにあるページ数と実際のファイル数がそろっているかぐらいです。ですが、原本の劣化がひどく、インスペクションでも中まで見ることはあえてしなかった資料も中には少しあり(書誌データをとれるところまで見たら、あとは紙をいためないようにそれ以上は見ません)、その部分は少し気をつけて見ることにしています。

 きょうは、朝からチェックをしてお昼になり、お昼すぎの少しくたびれてきたころ、劣化のためこれまで中までよく見たことがなかった資料が出てきました。これは、「金鉱整理」といって、戦局が思わしくなくなり、これまで金(地金)を持って行けば戦争に使う材料を売ってくれていた国がだんだん材料を売ってくれなくなったので、無理をして金を掘らせることをやめて、その労力や資金を石炭を掘ることにまわすことを政府が決めた時期の書類です(アメリカと戦争をする前の年あたりからこの政策転換までのあいだは、外国からものを売ってもらう代金として使うために、補助金を払って低品位な鉱山を無理をして採掘してもらったり、金製品を買い上げたりという政策が行なわれていました)。
 お金をかけて金山を経営していた人たちに、業務の廃止と業種換えをしてもらうには、業務整理や準備のための融資を行なう必要があります。ざっと読んでみたところ、書類の内容は、金鉱整理に必要な融資のうちのいくらかを、この地域にある銀行にも割り当てたいというものでした。また、書類には添付物として、全国の金鉱山の一覧と、そのうちどれを残し、どれを整理するかのチェックリストが添えられていました。
 ふむふむとリストを眺めていたところ、祖父の実家の山里の地名がでてきました。おやと思って鉱山の名称を見ると、これは、祖母の父親が経営にたずさわっていた鉱山です。祖母は、祖母の父親についてこの山里に入り、おそらくそこで祖父に出逢ったのでした。こちらも、思わぬところで親族に出逢ってしまいました。なんだかふしぎな気分です。
2004年07月27日 23時54分01秒

展覧会のこと
 きのうは、六本木の森美術館で行なわれているニューヨーク近代美術館展にでかけてきました。森美術館は夜おそくまで開いているので(ふだんは10時、週末は12時までだったと思います)、仕事の帰りによることができます。音楽会ですと、座席の指定券を買ってでかけるので心配はないのですが、展覧会ですと会場に付くまで込み具合がわかりません。混雑が苦手なので心配していましたが、平日の夕方ということで人手はそれほどでもありませんでした。
 ニューヨーク近代美術館展というと、数年前に上野で開催され、たいへんな混雑であった憶えがあります。今回の森美術館の展覧会は、いわゆる名作や「門外不出」の一点を見せるのではなくて、「モダンってなに?」という主題と5つの副題を設けて、6つの展示室(ビデオインスタレーション用に1部屋とってあります)に、それぞれ題にそった展示がしてあるというものでした。だれだれの「これ」がきています、という弘報をしない展覧会なので、出展作をお知らせするのは人によってはイメージを削ぐことになってしまうかもしれませんが、ポスターになっているウォーホルの「マリリン」(シルクスクリーン)や、チケットに書かれているエルンスト ルートヴィッヒ キルヒナーの「ベルリンの街路」(カンヴァス油彩)のほかにも、ムンクの「マドンナ」と「接吻」(いずれも木版)が並んでいたり、エゴン シーレとオスカー ココシュカの裸体習作(いずれもペン水彩)が並んでいたりと、たいへん豊かな展示内容に驚きました。自分では、フランシス ベーコンの作品をはじめて実際に観ることができたのがよい体験でした。8月1日までの展覧会ですが、時間があればもう一度出かけてみようと思います。
 美術館を出てからは、階下のミュージアムショップやスーベニアをながめて(村上隆が、このビルのためにデザインしたふしぎな動物のぬいぐるみがどうやら好きになりました。シャチョウ、というのですが、これはぜひ手許におこうと思います)、低層階にある点心のお店で、小籠包をいただいて帰りました。六本木ヒルズは想像以上におもしろそうなところです。
 
2004年07月24日 00時04分48秒

喜びの島のこと
 きょうは、街の音楽ホールのピアノの演奏会に出かけました。前回、この音楽ホールでピアノの演奏会を聴いたのはおそらく5月のなかばでした。およそ2か月のあいだ、演奏会に出かけないでいたことになります。ずいぶん久しぶりのような感じがしました。
 きょうの演奏会でピアノを弾いてくださったのは、まだソヴィエト連邦だったロシアで生まれてピアノの勉強をして、現在はフランスに住んでおられるという方でした。家族が代々音楽をしておられるのだそうで、ピアノは父親に学んだとプログラムに書かれていました。日本の大学でも、ピアノ演奏のマスタークラスを開いておられるようです。
 曲目は、はじめにショパンのポロネーズの7番やエチュードの3番、幻想即興曲などがあり、次にドビュッシーの前奏曲集から、「雪の上の足跡」、「沈める寺」、「花火」などの抜粋と「喜びの島」がありました。休憩がおわった後半は、「展覧会の絵」がありました。この音楽ホールで「展覧会の絵」を聴いたのは、これで2回目になります。力強いところとやさしいところがちょうどよく合わさった、とてもよい演奏でした。アンコールは、スクリャービンのおそらく練習曲(聴いたことはあるのですが、曲名や番号を忘れました)とショパンの「枯葉」と、バッハのラルゴでした。バッハは、声楽でも、オルガン曲でも、ピアノ曲(ピアノ編曲)でも、やはりよいものだなあとあらためて思いました。
 帰宅して玄関に入ろうとすると、扉の上にやもりが2匹じっとしていました。生き変わり死に変わりしているのだとは思いますが、ここに住むようになってから、夏になるといつも2匹のやもりがでます(文字にすると脱力しそうないいかげんな名前をつけて個体識別しています)。きのうは庭で、青光りするしっぽを持った少し大きめのとかげが庭石のところを走ったり止まったりしているのに出会いました(しかもよく見ると、しっぽがふたまたでした)。あと2種類、住んでいるところの外廻りや庭に夏になると出てくるいきものがいるのですが、夏もいよいよという感じです。
2004年07月17日 01時25分29秒

私的なあとがきのこと
 たのまれごとを受けて、昨年の春から初秋にかけて書き起こしと語句のたしかめをしていた昔の方の記録が、本のかたちになってお店に並ぶことになりました。戦争が終わった季節の近くに本が出されることになったため、本をこしらえて下さった出版社とはべつの雑誌社が、この記録について特集記事を書いてくださり、そこに中身がすこし引用されています。
 この記録は、戦争がおわりに近付いたあたりに大臣をしていた方が、内閣みんなが集まってする会議や、戦争に関係の深い大臣と軍の代表とが集まってする会議にノートを持って行ってとっていたメモです。これらの会議の記録は、これまで、会議の正式な記録として作られたものの一部が知られていたのですが、こういう議論があって、結局こういう結論になりました、という経過がまとまってわかるものはありませんでした。たいへん貴重な記録なのだそうです。
 わたくしごとになりますが、この記録を読みなさいという依頼がやってきたとき、わたしのほうはデジタルアーカイヴの大きな仕事を去ったばかりで、待っていただいているアーキヴィストの見習いをさせてくださる研究所にいつ戻れるか心配になるぐらいのだしがら状態になっていました。むかし参加していた、資料の所在や保存についての研究会を主宰しておられた先生から電話を受けて、ひさしぶりに外に出て、ひさしぶりにこわごわと電車に乗って先生のところにおうかがいしたところ、この記録があったのです。エッセンスにあたる部分は、この記録を書いた方の研究をしておられる方がすでに読んでおられたのですが、そこでとりあげられなかった部分もふくめて、すべてをもう一度読んで、熟語や固有名詞などが正しいかたしかめをしなさいということでした。
 この記録を書いた大臣が所属していた内閣は、開戦からずっと戦争指導と国内行政をしてきた強い内閣が辞職し、そろそろ戦争の終わらせかたを考えなければならない時期になってきたときの内閣でした。アメリカの飛行機が、東京に爆弾を落として、燃料の補給をしないでそのまま戻ることができるぐらいの近さまで配備されるようになったため、まず飛行機工場などの大きな工場が、次に民家と混在する小さな工場が空襲を受けるようになっています。また、日本と同盟を結んでいて、ソビエトやイギリスとのあいだでもう一局面の世界大戦をしていたドイツも、攻勢に出ることはほとんどできなくなっていました。
 身体が慣れない始めのころ、午後からそろそろと先生の研究室にうかがってこの記録を読みはじめたときは、おととしから昨年にかけての仕事のたいへんさと、記録に書かれている状況のたいへんさが身体において勝手に感応してしまい、気分が悪くなったり涙が出たりとたいへんでした。洗面所に走るのが間に合わずに、机の横のくずかごにこみあげてしまい、ひとりでよかったと思いながらそろそろと片づけに出たのも、なさけない思いでです。
 本のかたちになったものが届いたら(1冊いただけることになりました)、また感慨も深いのだろうと思います。そのおりには、また何か書こうと思います。
2004年07月13日 00時48分57秒

むう、のこと
 せんだって日記に書いたさんぽのコースの途中には、韓国の調味料や食材を取り扱っている大きなスーパーマーケットがあります。同じ通りには韓国料理の食堂やおそうざいの店もならんでおり、さんぽのしめくくりはそこに立ち寄って、おかずの材料を買って帰ることにしています。大きな買い物荷物をさげて通勤帰りの電車に乗るのは少し疲れるので、そのスーパーマーケットでしか手に入りにくいものを選んでいるはずなのですが、それでも重たくなってしまうので、肩からさげることのできる布の袋を自分で持っていくようになりました。買ったものを入れたかごに袋をのせてレジに持っていくと、特にことばで説明しなくても袋がついてきません。
 暑くなるようになってからは、冷麺と、むう、を買って帰ることが多くなりました。冷麺は、麺とスープがべつに売られているので、いろいろな組み合わせをためしている途中です。そうめんほどの細さのいちばん細い麺と、酸味が比較的すくない感じのするスープの組み合わせが気に入ったので、ふとパッケージのこしらえているところを見たら、ロッテとヤクルトになっていました。なんだか野球の試合のようです。
 むう、というのは、そばなどの穀類やどんぐりなどの木の実の粉末に水を加えて火にかけて練ってこしらえた、固形の食べ物です。色は、原料にしているものによって異なりますが、おおむねそばの色をしています。味のような味はありません。おさしみこんにゃくほどの切り身に切って、ねぎやごまなどをまぜた調味料をかけていただきます。
 むう、を初めていただいたのは、大学と大学の提携交流で韓国に出かけて、いっしょに提携交流にでかけた下級生が市場を見て歩きたいというので市場までついて行ったおりのことでした。そのときは、交流団のなかでいちばん年上の学年になっていたので、大学の近くの出かけてみたいところについて行くのが仕事のようになっていたためです。
 市場の通りを、下級生を連れてうろうろしていたところ、市場の入り口(または出口)に出ていた屋台でなにか食べていたおじさんが、大声で「おう、なにしにきたんだい」のような感じでこちらを呼び止めました。時間が昼下がりであったことと、おじさんがなんとなく非常に酔った感じであったために返事をしないで通り過ぎたところ、いつまでもこちらを大声で呼んでいるようです。韓国語をあまり話すことができない下級生に待っていただいて屋台にもどり、「近くの大学にステイしているもので、なんとなく散歩をしにきました」と答えると、おじさんはそうか、と答え、屋台にならんでいる皿を指し、これは伝統的な食べ物だからまあ食べていけと屋台の前の椅子を指します。お店の方に値段をうかがってから、ちょっと待っていてくださいと言って待たせていた下級生のところに相談をしに行き、もう少し市場を見て歩きたいという下級生に待ち合わせの時間をお知らせして、いっしょに食べてみたいという下級生を連れて屋台に戻っていただいたのが、むう、でした。
 冷麺にも、旅行先でいただいた思い出が少しあるのですが、それはこんど書こうと思います。
2004年07月04日 00時06分07秒

大東京の地図のこと
 おととい見つけて、きのうはどんなたてものなのか眺めた大きな洋館を、きょうはむかしの地図で調べてみました。
 アーキヴィストの見習いをしている片方のところ(おもに目録やデータベースをこしらえているほう)には、「大東京」に関する地図や本が少しあります。「大東京」というのは、昭和7年に東京の範囲が少し広がったあとの「新しい東京」の広がりをさす言葉です。いわゆる「東京音頭」という盆踊りの歌は、この時の記念に作られました。
 むかし日本であった地域や中国に関係する資料が主に集められているなかに、「大東京」に関する本や地図が含まれているのは、こちらに資料を寄贈してくださった方のおひとりが、むかし東京の市長をしておられたためであると思われます。東京は、むかしは「市」で、それから「府」で、戦争のおわり近くになって「都」になりました。これは、戦争の場所がいよいよ本土に近くなった場合に、日本の各地域がそれぞれの長を先頭にして、ある程度独自に防衛や行政をすることができるようにした政策の一環です。東京の市長をしておられたこの方の資料のうち、東京市に関する書類などのものは、おそらくよりゆかりのあるところに引き取られているのだと思われます。また、東京の市長をしておられたおりの日記は、すでに本になっています。
 「大東京」に関する本や地図のなかに、昭和9年に作成された「大東京市地図」という大きな色刷りの地図帳があります。東京が「大東京」になった記念と、地図帳を制作した会社の創業なん十年かの記念のために作られた地図帳であるという前書きがついており、次のページにはもくじとさくいんがついています。むかしの図画版ぐらいの大きさのページをひらくと、見開きでそれぞれの区域のたいへん詳細な図がひかれています。縮尺がどのぐらいなのかは見てくるのを忘れたのですが、路面電車の駅の名前や、現在でいう「何丁目」までの表記がされています。
 ですが、あれだけ大きな洋館だったのだから、きっとなにか目印になっているにちがいないと思って眺めてみた地図には、結局なんの目印もついていませんでした。この洋館から少し歩いたところには、洋館をそのままレストランにしたお屋敷があるのですが、このお屋敷はちゃんと地図にのっています。レストランになっているお屋敷より、こちらの洋館のほうが大きくて広いのに、ふしぎなものだなあと思ってお昼休みを終えました。こんどは、この地図帳より新しい地図をさがしてみようと思います。
2004年07月01日 22時57分43秒

洋館のこと
 日記をお休みしていたあいだにも、お仕事には出かけていて、雨の日以外はさんぽをして、最寄り駅から少し離れた乗り換え駅まで歩いて家に帰っていました。
 仕事をしているところからさんぽの目的地の駅までの位置関係は、非常に大ざっぱにいうと、やや縦長の長方形の対角線の角どうしにあたります。長方形に対角線をひくような感じに地下鉄が通っていて、朝はその地下鉄で仕事に通っているのですが、帰りは長方形のあいだをあみだくじのようにつないでいる細い道路をいろいろ通って帰ります。長方形の辺にあたるところは大きなバス通りになっているので、迷いそうな場合にはいったん通りに出てみることもあります。
 きょうは、きのう見つけた大きなお屋敷をもう一度眺めて帰るさんぽをすることにしました。
 さんぽの道すがらの街のあたりは、むかしは軍の大きなたてものと、大きな屋敷街のあったところでした。軍のたてものがあったところは戦争で焼けてしまい、広さを生かした大きな公共施設になっている場合が多いのですが、屋敷街は比較的そのまま残されている感じがします。下町のようにすまいと街工場が混在している場所と違い、爆弾を落として焼く戦略がとられなかったのか、お屋敷の人たちがいっしょうけんめいにお屋敷を空襲から守ったのか、理由はよくわかりません。
 きのう見つけた大きなお屋敷は、バス通りに面して建てられている二棟のマンションのあいだの細い道の先にありました。さんぽの時には、細い道があるととりあえず入って見るのですが、その道には、「この道は、この先にあるお宅のご好意で使わせていただいている道なので、無断駐車はしないでください」という看板が立っていました。ふうんと思って道の先を見ると、高い塀の奥に古くて大きな洋館が建っています。塀が高くてどんな家なのかはよくわからないのですが、なにか由緒のありそうな大きな名札が門にかかっていました。高い塀にそって歩くと、塀の長さはマンション二棟ぶんをこえて、もう一棟ぶんほど先まで続いています。きのうは時間までに立ち寄らなくてはならないところがあったので、そのまま駅に向かってしまいました。
 いくら伸び上がっても、塀が高くて洋館の姿が見えないので、きょうは洋館の正門のうしろの通りにまわってみました。うしろの通りでは、むかしなにか大きなたてものがあったらしいところが更地になっていて、少しですが洋館を見ることができました。少し地元のたとえになりますが、東京都庭園美術館のたてものと、もとの首相官邸をあわせたような、モダンで凝ったつくりの洋館でした。どんな方が住んでおられた家なのか、とても気になります。
2004年07月01日 00時08分00秒

日記のあいだのこと
 だいぶん長いあいだ日記をお休みしてしまい、失礼いたしました。
 なんだか心身のぐあいがよろしくない、ということを書いたのがせんだっての日記だったかと思うのですが、その翌日、ジェラートを買い食いした帰りにおさいふを落とし、おさいふに診察券を入れてあった歯医者さんから、おまわりさんのところに届いていますよという電話をいただくまでまったくそのことに気付かなかったということがありました。お金を入れておくおさいふと、カードなどを入れておくおさいふは別にしてあるので気付くのが遅れたのだと思いますが、それにしてもあんまりだと思い、その日が週末であったので週明けにお医者さんの予約をして、月曜日にお医者さんに出かけてきました。
 通っているお医者さんは、心身の不調をどちらも診てくださるお医者さんで、どちらの場合にもたいへんお世話になっています。じょうずに引き継ぎをしないで去ったプロジェクトが、それ以降なんだかうまく機能していないのを知って以来、なんとなく調子がよくないのですが、と相談すると、お医者さんはいろいろな質問をして、アドヴァイスとよく眠れるお薬を処方してくださいました。(質量ともに)多めの睡眠時間をとって、まずリラックスしましょうということです。そのため、これまで日記を書いていた時間にベッドに入ることを心がけたため、日記がお休みすることになってしまいました。
 さいわい、お薬はよく効き、感覚の触れが大きくなったり、緊張したりすることはすぐおさまりました。そのあいだのことは、おりを見て書こうと思います。
2004年06月27日 19時55分55秒

閲覧準備のこと
 大学の夏休みを利用して外国から資料を見に来られる大学の先生の日程が、だんだん具体的になってきました。お忙しい中から時間をこしらえて来日されるとのことで、表敬的な挨拶はいりません、できるだけたくさんの時間、資料を見ていたいのです、というお知らせが届きました。その期間のあいだは、アーキヴィストの見習いをしているもうひとつの研究室をお休みして、棚によじのぼって資料を上げ下ろししたり(書庫のなかには、天井まで届く作り付けの大きな書棚があります)、大きな軸ものをのばしたりする手伝いをする予定です。所蔵されている資料の場所と内容は、だいたいユニオンカタログ(書庫にある資料だけでなく、本来は続き物になっているはずが書庫に揃っていない巻号の所在や、関連する資料の所在、さいきんの復刻情報などをあわせた情報のことをユニオンカタログといいます)になって頭に入っていますので、アーキヴィストらしい手伝いも頼まれればすぐできるようにしてあります。

 先生は英語を母語とされ、英語圏で仕事をしておられるのですが、資料についての会話は韓国語か日本語でだいじょうぶということで、少し安心しました。ご先祖のどなたかが、ずっとずっと昔、日本で西洋音楽を教えておられたというので、時間があればそのことをたずねてみようと思います。

 このように、いちおう日々の仕事はしているのですが、実は先週の末から、あまり心身の調子がよくありません。なんといいますか、喜怒哀楽のうちの怒と哀の部分がふだんより強調された感じで、たとえば書き物をしていてなにかを机の下に落としてしまったとか、データを入力していて誤字を入力してしまったとかいうことが(ふだんより多く)起きるたびに、まず猛烈にいらいらして、そのあと、そのような凡ミスを(ふだんより多く)する自分を責める思いが猛烈にわいてくるという状態が続いています。
 思い当たる原因はいくつかあるのですが、もっとも大きなものは、一昨年までかかわっていたバーチャルアーカイヴのサイトが、なんといいますか、大幅に精度をおとした仕事をするようになったのを目にしたことによるものと思われます。もう手を放した仕事ではあったのですが、多くの気力を傾けた仕事であったので、その後もサイトをチェックしていたのですが、更新アナウンスもなく大量の画像が追加されているのを目にしたストレスは大きかったようでした。しばらく早めに眠ることにして、それでも不調が続くようでしたらお医者さんに出かける予定です。
 
2004年06月14日 23時52分09秒

となりびとのこと
 きのうは、アーキヴィストの見習いをしているところで、整理がおわった資料について、その資料で新しくどのようなことがわかったかを発表する会がありました。
 主題になったことがらは、日本とアメリカとの戦争状態がおわったあと、お互いの国の商社や銀行家などが、戦争になる前の取り引き関係をいちはやく元に戻そうとして、お互いの国でいろいろな運動をしていたということについてでした。具体的には、日本と外国、もしくは日本と国際機関のあいだのお金の貸し借りの信用度が上がるような方法をアメリカの人が日本の人に教えたり、もう少しふみこんで、お互いにとってよいとその人たちが考える方向に、占領政策を変えようとする運動をしたりということをさします。アメリカ側の関係者については、資料や研究量が多くなってきているということでしたが、日本側の関係者についての研究や、その人たちが行なったことについての研究はまだ始まったばかりです。

 これらの運動をしていた日本とアメリカの人たちは、戦争が始まる前から知り合いでした。かれらは、日本とアメリカの関係が良好であった時期には、日本が大陸に持っている勢力範囲と資源と市場とアメリカの資金とをあわせて、ヨーロッパやソビエトを(政治的にも)牽制できるぐらいの大きな産業地帯を建設する計画を立てていたことがあります。
 日本とアメリカが戦争になるかもしれないという時期になると、かれらは戦争になるのをなんとか止められないか、おたがいの国の政治家や外交官に対していろいろな工作を行ないました。
 戦争が始まって時間がすぎて、日本が負けるだろう、また、世界の政治や経済の地図も塗り変わるだろうという見通しが立つようになると、アメリカ側の人たちは、どのようにして日本を戦争終了という状態に着陸させるか、また、着陸させたあとでどのようにして国際関係という場所に連れて行くか、予想をたてていろいろな研究を行ないました。
 もちろん、国と国の関係は商機だけで動くものではありませんし、お互いの国には、思惑や考え方が異なる人たちがたくさんいるので、かれらが研究したり工作したりしたことがみんなその通りになったわけではありません(お互いの国内におけるヘゲモニー争いというのも、とても興味深いことがらですが)。撃ち合ったり輸送船を沈めあったりという狭義の「戦争状態」の終結の先の、もっと大きな意味での「状態の恢復」または「あたらしい状態の模索」という視点を知ることができて、とてもためになりました。

 きょうは、戦争がおわるまで日本が行政を行なってきた場所でお店を開いたり会社を経営したりしていた人たちが、戦争がおわってその場所を去ったあと、その場所でどのぐらいの規模の経済活動をしていて、その場所にどのぐらいの土地や設備やスキルを残してきたかを連合軍と国に報告した書類の整理をしていました。戦争がおわったあと、お互いの国は話し合いをして、かかった被害や費用をどう負担するかとか、どのような条件でふたたび国交を結ぶかなどを決めますが、この書類はその材料になっていたものです。お店や会社の名前や、報告書の日付けなどの基本的なデータはデータベースに採録してあるのですが、作業のしめきりに時間があるので、それらのお店や会社がどの場所に戻っていったかも採録することにしました。
 報告書は、その当時世界一だった水力発電所を経営していた会社から、町で日用品を売っていた小さなお店まで、いろいろな業種や規模のお店や会社がほとんどもれなく提出しています。資産の量や経営状態など、書かなくてはならない項目のひとつに、これからどうしたいか、というのがあり、その部分は数字でなくことばで書かれているので整理をしながらうろうろと読んでいました。
 地域に販売網を作って牛乳の配達をしていたお店(従業員はたったふたりです)の今後の希望の欄には、「この会社は、この地域でたったひとつの牛乳販売店なので、会社がなくなってしまうと地域に牛乳の供給ができなくなってたいへん困ってしまうであろう。だから、すぐに戻って配達を再開したい。事情が許さないのであれば引き継ぎだけでもすぐに行ないたい」というようなことが書いてありました。きのうの研究会のことを思い出して、戦争のあいだでもつながっていたもの、つながろうとしていたものについて、ちょっとしみじみ考えました。
2004年06月11日 00時19分17秒

黒いお茶のこと
 なんといいますか、夏に向かうにあたり、ちっとでも細くありたいものであると思うようになり、冷蔵庫にこしらえておく飲み物を中国の黒茶に変えてみました。黒茶はプーアル茶ともいい、収穫したお茶の葉を発酵させたうえ、ある種のかびを発生させてこしらえます。口あたりがやわらかくてあきないので、いくらでも飲むことができます。成分そのものにも何らかの作用があるのかもしれませんが、身体に水分をたくさん取り入れて代謝をよくすることで、身体が軽くなるのではないかともくろんでいるのです。
 黒茶は、マリアージュフレールという世界のお茶を取り扱っているお茶やさんで、仕事の帰りに求めてきました。お湯でいれてすぐいただいてしまうのではなく、冷蔵庫で保管するので、お茶は煮出してこしらえました。コーヒーのような黒い色になりますが、しぶくはなりません。

 今日はまた、住んでいるところの駅に近いスーパーマーケットで、ミントを茎から切ってたばねたものがたいそう安く売られていました。とりあえず茎を切り詰めて葉のほうをガラスのコップにさしたあと、切り落とした20センチ×30本近くのミントの茎をよく洗い、3センチほどに花ばさみで切ってボウルにあけ、グラニュー糖を茎がかくれるほどふりかけてしばらくおきました。そのあと、ミントのかおりがうつって湿っぽくなったグラニュー糖を茎もいっしょになべにあけ、少しの水といっしょに沸かしてシロップをこしらえました。シロップはミントの葉の部分を入れても作ることができますが、この場合、あまり葉を沸かすとミントの香り以外の草の香りが出てきます。このシロップは炭酸水で割ると夏によいです。
2004年06月09日 01時14分43秒

忙中のこと
 5月の末から6月にかけては、いろいろな学会の大会や、今回は参加しようと思う研究会の例会がかさなって、カレンダーにしるしをつけていったら土曜日がすべて埋まってしまいました。
 先々週の土曜日は、久しぶりに関東で開催される大きな学会の大会に出かけ、久しぶりにいろいろな先生方にお会いすることができました。先週の土曜日には少し大きな国際シンポジウムに出かけて、久しぶりにいっしょうけんめい外国語を聴きました。来週は、むかしその国にとってたいへん大きな法律を作ったグループの、おそらくさいごのおひとりにあたる方が日本に来られるというのでお話を聴きに行くことになっており、その来週には、1、以前たいへんお世話になった方が共同で書かれた本の書評会と、2、資料の所在について知りたかった地域と時代がちょうど会うところについて報告が行なわれる研究会と、3、メシアンやサティの歌曲を中心にしたソプラノの演奏会、の3つがまとめてあります。その次の週は、土曜日と日曜日にかけて大きな研究会があります。仕事などでたいへんなことの多かったおととしと昨年は、これらのほとんどをご無沙汰させていただいていたので、日程を立ててみただけでも、今年はやっと少し元気が戻ったのかもしれません。
 このような日程のまだはじめにもかかわらず、今日はお仕事をお休みして家にいました。思い返してみると、きのうはお湯をつかったあと、サンタマリア教会のコロンを身体じゅうにばちゃばちゃつけすぎました。アルコール分が肌からしみて気管支に影響を与えたようで、寝付く前に息が少し苦しくなって、朝方まで起きていることになってしまったためです。つけはじめの冷房はちょっとほこりっぽいので、なるべく冷房をつけないようにして、「An Occupation without Troops」という本をベッドで読んでいました。

 前回の日記で、1つの鉢に20本ほど、と書いたバジルの芽たちでありましたが、先週の土曜日、研究会から帰ってきたところが、またくにゃんとなっていて結局4本になってしまいました。鉢の土に指を差し込んでみると水分は充分あるはずなのに、なぜくにゃんとなるのか解しかねます。蒔き残した種を蒔いて再挑戦を図るか、苗を買い足すか、考えてみます。
2004年06月07日 20時11分00秒

バジルの苗のこと
 バジルが二回目の発芽(といいますか全滅後の蒔きなおし)をしたことを、せんだって日記に書きました。二回目のバジルの芽たちは、おかげさまですべて双葉になりました。前回と同じく、欲を出してたくさん蒔いた種がそのまますべて芽になっているのですが、こんどは間引いた芽を、鉢の中の密度のまばらなところに植え直しています。ごく小さなうちの植え替えなので少し心配でしたが、これらも無事に根付いたようで、鉢のすみでしゃんと立ってくれています。これで本葉が出るところまでこぎつけてくれれば、前回より段階は進んだことになるのですが。
 バジルの育て方を調べてみると、株と株のあいだを20センチほど空けるぐらいが、バジルにとってのびのびしたちょうどよい空間なのだそうです。今、20近くの芽たちがひしめいている鉢の直径は13センチなので、この鉢に居着いてよいバジルは1本だけということになります。土の養分を増やしたら、もう少し数を植えても大丈夫ではないかと考えて、きのうは配合液体肥料を買ってきて与えてみました。芽たちが根付いている土には、もしかしたら双葉から先に成長を進める成分が足りないのではないのかと思ったせいでもあります。

 あと、配合液体肥料を買ったついでに、バジルの苗と大きめの鉢と園芸土を買いました。駅から家まで歩く途中の花屋さんの店先に、みっしり茂ったバジルの苗が売られているのを見て、つい手を出してしまいました。ひとつのビニールポットに5〜6本の苗(本葉が4枚ほどついたもの)が繁っているものが150円という、たいへん良心的な価格でした。3鉢買って帰宅して、ポットから出してすぽんと鉢に入れ、すきまを園芸土で埋めてから水をやって落ち着かせると、あっというまにすてきなバジルの茂みのできあがりです。芽たちの鉢のとなりに置いて、きみたちも見習いたまえというお手本にしています。部屋がよいかおりになりました。
2004年06月04日 22時27分20秒

かあさん猫の近況のこと
 住んでいるところから駅までのあいだにある焼き鳥屋さんの前にくらしていて、生きかわり死にかわりしている猫たちのことを、むかし日記に書いたことがあります。あれから二か月ほどがたちました。
 いま、かあさん猫になってこどもたちの面倒を見ているのは、昨年の夏に死んでしまった毛足のふさふさしたとおさん猫の奥さんだった猫です。亡きとおさん猫とのあいだに生まれていた子猫たちは、もう大きくなってどこかに散ってしまい、いまかあさん猫にじゃれているのは今年の春のこどものようです。とおさんがだれなのかはよくわかりません。
 かあさん猫にじゃれている猫の数は、模様が似ているので数え間違いがあるかもしれませんが、おそらく3匹です。亡きとおさん猫のかあさんだったママレード色をそのまま継いだものが1匹、亡きとおさん猫の色をそのまま継いだものが1匹、亡きとおさんとかあさんの色が混ざったような色が1匹です。ママレード色の子猫の片目が少し白くなっているのですが、かあさん猫も子猫たちも、まあまあ肉付きもよく、焼き鳥屋さんのガラス窓のへりでぬくまっています。

 先週の水曜日か木曜日かのこと、駅に向かう道を歩いていたら、焼き鳥屋さんの2軒さきの洋食屋さんの前の、ほぼ車道にはみだしたあたりの歩道の上に、かあさん猫が眼を閉じて長々と横たわっていました。その日はたいへん暑い日だったのですが、日陰を選ぶでもなく灼けた道路の上にのびているのを見て急いで近寄り、かがみこんで口のまわりやおなかのあたりを眺めたのですが、ひげもおなかも動きません。
 生き死にはともあれ、とりあえずこの場所からかあさん猫を動かそうと後ろ脚を握ったところ、かあさん猫の脚はあたたかいような、硬直しているようなすじ張った感触でした。握った後ろ脚を強く握り直して少しもちあげた瞬間、かあさん猫は眼を開き、後ろ脚を握られたまま前脚だけで伸びをし、そこで後ろ脚が握られていることに気付いたようで、じたばたと身体をひねって逃げてゆきました。このかあさんは少し心配です。
2004年06月02日 22時39分41秒

テオルボのこと
 すこし前のことになりますが、先週の金曜日、街の音楽堂にリュートと声楽のコンサートを聴きにいきました。男性のかたがリュートを弾き、女性のかたがソプラノで歌をうたいました。どちらもアメリカ出身で、ふだんは大学で音楽や音楽理論を教えておられるのだそうです。
 演奏会のちらしには、声とリュートの演奏会と書かれてあったのですが、舞台にはリュートのほか、胴がリュートと同じくらいの大きさで、茎といいますか、弦が張ってある部分がリュートよりずっとずっと長いなぞの楽器も置かれていました。弦をとめてあるねじの部分も、茎の先端と中間部の2か所についています。演奏会の後半で演奏されたその楽器の音は、リュートより大きくて音域も広いものでした。これは、テオルボという楽器なのだそうです。
 演奏会で歌われたのは、16世紀から17世紀にかけてヨーロッパで歌われた歌曲でした。ダウランドやパーセルなどがその例です。ごく少ない人の前で、こまやかに歌詞を歌ってあげるための曲のように思われました。
 プログラムの曲目がおわって、アンコールとして歌われたのは、1940年代のジャズのスタンダードナンバーでした。テオルボアレンジというのは初めて聴いたので、とても楽しかったです。むかし、気に入ってよく聴いていた曲も演奏されたので、以下に歌詞をすこし書いておきます。作曲はリチャード ロジャースで、トニ ハーパーという人が1950年代に歌って代表作になりました。

I'll sing to him, each spring to him
And long for the day when I'll cling
to him
Bewitched, bothered and bewildered
am I
2004年06月01日 00時25分28秒


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