4月13日 (木)  聖金曜日のこと

あすは新聞社でのお仕事をすこし早く切り上げ、夕方から開催されるバッハのマタイ受難曲の演奏会にでかける予定です。

今回の演奏会は、マタイ受難曲のいくつかの稿本のうちでも、初期稿といわれる楽譜をもとに演奏されます。ふだん演奏される機会の多い稿本と比較すると、第一部の終曲が簡素なコラールで終わっていること、リピエノと呼ばれる児童合唱がなく、その部分がオルガンで演奏されることなど、いくつかの違いがあります。初期稿の演奏は、CDでは何度か聴いていますが、実際に聴くのは初めてです。

あすは、教会暦でいわゆる聖金曜日と呼ばれる特別な金曜日です。ですので、受難曲の演奏会が行われることには特別な意味があります。また、ホールに名前が冠されている作曲家が最期の時に聴いていたとされるマタイ受難曲を、作曲家の追想とホールの開館10年の記念のために演奏するという意味もあるようです。

教会暦においては、この金曜日に、イエスは十字架につけられ命を落としました。

きょうはその前日の木曜日ですが、マタイ受難曲の歌詞を思い出してみると、いま日記を書いているこの時間(夜10時すぎ)あたりですと、イエスは捕われて会衆の前に引き出され、ピラトと会衆のあいだで、祭りの恩赦をだれに与え、だれを十字架につけるかというやりとりが行われているところでしょうか。

いっぽう、イエスの弟子であったペテロは、会衆にまぎれていたところを見つけられ、おまえも弟子ではなかったかと会衆に問い質されようとしているところでしょうか。もう、一度目の否認をしているところでしょうか。

日記を書き終えたら、おさらいのために受難曲を聴き、深く眠っておこうと思います。

写真は、ハーバード大学の近所にあるちいさな石造りの礼拝堂です。背景の高い建物は、おそらくデザインスクールです。

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