4月20日 (木)  かすてらの思い出のこと

国際政治学会の新しい号の会報に、むかし、アーキヴィストの見習いのお仕事をさせていただいていた編纂室の、いちばん歳をとっておられた顧問の先生の追悼記事が掲載されていました。昨年の12月のはじめに世を去っておられたのです。

先生は、日中戦争がはじまる前からこのお仕事に就いておられ、戦争のあいだも、戦争が終わったその時も、そのあとも、60年近くアーキヴィストの仕事を続けておられました。アーキヴィスト、という職業の意味に気付き、日本でいちばん最初にそうであろうとしたのが先生であったのだと思います。

お嬢さんがここで見習いを始めさせていただいた頃には、先生はもうたいへん歳をとっておられたので、毎日仕事場においでになることはありませんでした。春の気持ちのよい日や、初秋の気持ちのよい日の午後にふっとおいでになり、ご自分の机でお茶をいただき、ファイルを繰り、ほかの顧問の先生方とお話をして帰ってゆかれました。

そのような、年に何度かの僥倖の一日が、お嬢さんがここでの見習いを始めさせていただいた初めての日でした。
その日の三時のお茶のお供はかすてらで、言い付け通りに部屋の人数を数え、かすてらの長さを割り算してナイフを入れていたところ、先生がふっとおいでになりました。続いて、やはりたいへん歳をとったもうひとりの顧問の先生もおいでになりました(こちらの顧問の先生も、もう世を去ってしまわれました)。
このような日は、思い出しても、お嬢さんがお仕事をさせていただいていた2年間のうちで絶後でした。これ以上かすてらを薄くすることはできませんでしたので、お嬢さんのぶんと、どなたかに渡るはずであったもう1切れを急いで菓子皿に並べ、お茶といっしょにお盆にのせて先生のところに向かったことが、仕事らしい仕事の初めてでした。

きょうから見習いをさせていただくことになりました、と挨拶をすると、先生は名刺をくださいました。どの先生のもとで勉強してきたのか、などのちいさな質問のあと、がんばりなさいと声をかけていただいたことを憶えています。

先生からは、2年間のうちに、特殊な辞書のつかいかたや専門用語の意味など、たくさんのことを教えていただきました。なにより、先生は、お嬢さんたちが史料としてあつかっている書類を作った人々と直接逢ったり話をしたことがある、かけがえのない方でした。

見習いのお仕事には、顧問の先生やお客さまにお茶とお菓子をさしあげたり、お話をうかがったりすることも含まれます。ドイツとソビエトが戦争をはじめた日のことや、日本がアメリカと戦争をすることになった翌年の仕事始めの日のことなど、先生にはかけがえのないお話をたくさん聞かせていただきました。

名刺に書いてあった先生のお住まいは、青山霊園のすぐ近くにありました。霊園に眠っておられるたくさんの方々に頼まれて、先生はいまもアーキヴィストの仕事を続けておられるのだと思います。

写真は、ハーバード大学燕京図書館の司書室の入り口です。司書室は図書館の入り口のすぐ近くにあります。すこし見えにくいですが、入り口のちいさなカードには、「ノックをして、いつでもご自由にお入りください」と書いてあります。

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