7月5日 (水)  ライチのこと

お嬢さんがむかし仕事をしていた資料館でお世話になった先生が亡くなられたことは、すこし前の日記で書いたことがあります。

その日の日記では、お嬢さんがはじめて仕事についた日に思いがけずおいでになられた、もうひとりの年をとった先生についても少し書きました。

先生は、外国語を学ぶための大学でマライ諸語を学んだあと、日本の海軍の仕事として、いわゆる南方と呼ばれる場所にはどのような資源があり、どのような利用が可能であるかを調査するお仕事についておられ、戦争が終わってから、文書を扱う仕事につかれました。

現在、マライ諸語はアルファベット表記されていますが、当時のマライ諸語は表記法が定まっておらず、先生はアラビア文字による綴字とオランダ式アルファベットによる綴字の両方を学ばれたのだそうです。

そのころ、いわゆる南方と呼ばれる場所では、現地語であるマライ諸語のほか、その地方を統治していた国の言語である英語やオランダ語やドイツ語、また、その地方の交易において大きな影響力を持っていた華人商人の言語など、さまざまな言語が用いられていました。そのようなわけで、先生は、それらの言語も自由に読んだり書いたりすることができました。

また、先生は、戦争の時には台湾で海軍の仕事をしておられました。

先生が与えられた仕事は、台湾の山奥にでかけて地域の人々に信用されるようにふるまい、もし台湾に連合国が上陸してくるようなことがあった時には、地域の人々が日本に協力してくれるような基盤を作ることであったのだそうです。

台湾では、いわゆる普通語と呼ばれる北京官話のほか、文字を持つ言語としては客家語、広東語、上海語など、また、無文字言語としては、現在では「台湾語」と呼ばれているミンナン語、山地住民の話すさまざまな言語などが用いられていました。そのようなわけで、先生は台湾で用いられている言語の多くも自由に用いることができました。

ですが、先生がたったひとつ、話すことができない言葉がありました。東京などで用いられている、いわゆる標準語です。たったそれだけの理由で、先生は戦後、日本の大学で教壇に立たれる機会がなかったのだと、あとになってうかがったこともありました。

先生は河内地方のご出身でしたので、のんびりとした関西の言葉でお話をなさっておられました。

ちょうど今ぐらいの季節、お嬢さんが留守番がてら、オフィスでお昼に家から持ってきたライチをうまうまといただいていると、先生がのんびりと入ってこられたことがありました。

 らいちぃ ですかな。

先生がお嬢さんに話しかけて下さいました。

 台湾で、な。海岸に穴を掘って待つわけ、ですわ。
 らいちぃの木の下を選んで掘ると、な、落ちてくるわけですわ。らいちぃ、が。
 ま、らいちぃ、は、うまいですな。
 ま、らいちぃ、も、うまいが、もっくゎ、はもっと、うまいですな。あれは、うまい。

らいちぃ、のお話からちょうど一年たった季節に、先生は急に亡くなられました。顧問の先生方も出席されることになっている編集会議の予定をお知らせするために上司の方が電話をかけたところ、その日の朝に息を引き取っておられたのです。

お嬢さんは昼になるまで席で泣き続けていましたが、昼になるとのろりと立ち上がりました。そして、同じく先生の死を悲しむ方々とインドネシア料理をいただき、そのあと近くのスーパーに寄り、ライチを買って席に戻りました。

いまでも、ライチをいただくと、らいちぃ、という、先生ののんびりした言葉を思い出します。

写真は、アメリカのスーパーの棚です。



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