このページでは前のページの初めで説明した11世紀の全音階がいかにして出来たのか、そこに至るまでの音階と音名の歴史について若干の説明を試みたいと思います。 方法としては、中世に音階を論じた音楽理論書の記述を年代順に紹介していくというやり方をしたいと思います。 具体的には以下のものを説明します。 ボエティウス『音楽教程』(6世紀初期)、フクバルド『音楽教程』(9世紀の終わり頃)、偽オド『ディアログス(対話)』(11世紀初期)、そしてグイド・ダレッツォ『ミクロログス』(1026年以降)です。
※主要な参考文献はニューグローヴ世界音楽大事典の「旋法」の項目、あるいはこれの原書(英語)第二版の "Mode" の項目です。 これらの項目では中世の旋法理論だけで日本語版で15ページ、英語原書で20ページにもわたって詳しい解説がされていますので、近くの図書館にニューグローヴがあるという人は是非一度これを精読してみることをお勧めします。
ボエティウス Boethius (480年頃生、524年没)の『音楽教程 De institutione musica』は中世を通じて、音楽を学ぶ全ての者にとって最も権威ある教科書として、いわば音楽家 musicus になるための必読書として読まれた書物ですが、古代ギリシアの音階を論じた第一巻の第20章から第27章あたりも、西洋音楽において決定的な役割を果たしたと言えるでしょう。
先程言及したニューグローヴの「旋法」の項目では、西方教会音楽(要はグレゴリオ聖歌など)の旋法理論は、「すでにカロリング朝以前から口伝の形で存在していた西方の聖歌レパートリーが、8、9世紀の間に、その当時の実践的伝統の外から入ってきた2つの主な理論の流れと合流したことから始まった」と述べています。 ここで外部から入ってきた「2つの主な理論の流れ」とは、一つは東方教会の8旋法組織(オクトエコス)で、もう一つはヘレニズムの理論(ピタゴラスの理論の上に築かれたプトレマイオスらの理論)のボエティウスらによる中世ヨーロッパへの伝承ということになるそうです。
※8旋法組織(オクトエコス)については、私はあまり知りません。
この二つの関係は、東方の8旋法組織を土台として、ヘレニズムの理論の図式やタームでこれを理論化するという関係と言ってよさそうです。 ここで今から説明するボエティウスの音階の理論は、そのような位置付けで理解しておいて良いだろうと思います。
さて、それではボエティウスの理論を見ましょう。 以下ボエティウス『音楽教程』第一巻の第20章以降を、金澤正剛先生の『中世音楽の精神史』第二章を参照しながら説明したいと思います。
※『音楽教程』のラテン語原文が見たい人はとりあえずTMLの 6th-8th centuries から見るのが手っ取り早いでしょう。 ボエティウスの原文を自力で読むのは相当骨が折れますが、英訳は出版されています。 A.M.S.Boethius, Fundamentals of Music, Calvin M.Bowers, ed. by Claude V.Palisca (New Haven & London: Yale University Press, 1989)
※『音楽教程』第四巻第15章あたりの古代ギリシャの旋法についての議論は、このページでは言及しません。
『音楽教程』第一巻の第20章から第25章は、古代ギリシャのハープににた撥弦楽器、キタラの調弦を例にとりながら、古代ギリシャの音階構造を説明しています。 元々4弦だったのが8弦になり、15弦になったところで2オクターブに逹し、それぞれの弦の名前がどうで、といった話は(金澤先生に倣い?)省略します。
古代ギリシャの調弦は基準となる弦から完全4度の音程を得ることから始まります。 そしてその完全4度の二つの音の間に、特定の規則にしたがってさらに二つの音を差しはさんで、四つの音からなる完全4度を作りそれをテトラコルド(4弦の意)と呼びました。 このテトラコルドが、音階の building block となります。
さて、このテトラコルド、様々種類があるようですが、主要なものは次の三種類だとボエティウスは説明しています。 すなわち、ディアトニック類(Diatonum)、クロマティック類(Chromaticum)、エンハーモニック類(Enarmonium)の三種です。
ディアトニック類は完全四度を下から上に半音(semitonium)一つと全音(tonus)二つに分割します。 クロマティック類は完全四度を下から上に半音二つと短三度(tria semitonia)に、エンハーモニック類(Enarmonium)は四分音(diesis)二つと長三度(ditonus)一つに分割します。
ディアトニック | クロマティック | エンハーモニック | |
+ | 全音 Tonus | 短三度 Tria semitonia | 長三度 Ditonus |
- | |||
+ | |||
- | |||
+ | 全音 Tonus | ||
- | |||
+ | 半音 Semitonium | ||
- | |||
+ | 半音 Semitonium | 半音 Semitonium | 四分音 Diesis |
- | 四分音 Diesis |
さて、テトラコルドを二つ重ねてその下に全音を一つ付け加えるとちょうどオクターブになります。 このオクターブを二つ重ねると4つのテトラコルドを含み15音からなる「大完全音階」が出来あがります。(下の図参照。)
ここで用いられるテトラコルドはディアトニック、クロマティック、エンハーモニックのどれでも良いようですが、最も普遍的なものはディアトニックで、ディアトニックのテトラコルドから「大完全音階」を作ると西洋音楽で普通に使われる全音階そのものになります。 下はディアトニックの大完全音階を図にしたものです。
+ | -------------- | --- | + | --- | ネーテー・ヒュペルボライオーン | (aa) |
+ | テトラコルド | + | ||||
+ | --- | + | --- | パラネーテー・ヒュペルボライオーン | (g) | |
+ | + | |||||
+ | --- | + | --- | トリテー・ヒュペルボライオーン | (f) | |
+ | -------------- | --- | + | --- | ネーテー・デイエゼウグメノン | (e) |
+ | テトラコルド | + | ||||
+ | --- | + | --- | パラネーテー・デイエゼウグメノン | (d) | |
+ | + | |||||
+ | --- | + | --- | トリテー・デイエゼウグメノン | (c) | |
+ | -------------- | --- | + | --- | パラメセー | (b) |
+ | 全音 | + | ||||
+ | -------------- | --- | + | --- | メセー | (a) |
+ | テトラコルド | + | ||||
+ | --- | + | --- | リカノス・メソン | (G) | |
+ | + | |||||
+ | --- | + | --- | パルヒュパテー・メソン | (F) | |
+ | -------------- | --- | + | --- | ヒュパテー・メソン | (E) |
+ | テトラコルド | + | ||||
+ | --- | + | --- | リカノス・ヒュパトン | (D) | |
+ | + | |||||
+ | --- | + | --- | パルヒュパテー・ヒュパトン | (C) | |
+ | -------------- | --- | + | --- | ヒュパテー・ヒュパトン | (B) |
+ | 全音 | + | ||||
+ | -------------- | --- | + | --- | プロスランバノメノス | (A) |
この大完全音階のちょうど真ん中の音が「メセー」と呼ばれます。まさに「真ん中」という意味のギリシャ語で、調弦の基準になる音です。 これは前のページの初めの音階で、小文字の a にあたる音です。
※上の表の右端のアルファベットは対応する11世紀以降の音名を記したものですが、もちろんボエティウスには出てきません。
メセーのオクターブ下は「プロスランバノメノス」、オクターブ上が「ネーテー・ヒュペルボライオーン」です。他の音にも優雅なギリシャ語の名前がついています。
※ギリシャ名の意味については金澤正剛先生の『古楽のすすめ』第四章参照。
そういうわけで上の図では一番高い音が一番上になるように書いてありますが、ボエティウスは逆の順番で、最低音のプロスランバノメノスが最初に来るように音名のリストを書いています。(すぐ下を参照。) これはキタラを演奏するときに低い音の弦が上に、高い音の弦が下に来るためだそうです。 このとき一番下になる最高音「ネーテー・ヒュペルボライオーン」は「一番下の弦」という意味だそうです。
Proslambanomenos |
Hypate hypaton |
Parhypate hypaton |
Lichanos hypaton diatonos |
Hypate meson |
Parhypate meson |
Lichanos meson diatonos |
Mese |
Paramese |
Trite diezeugmenon |
Paranete diezeugmenon diatonos |
Nete diezeugmenon |
Trite hyperboleon |
Paranete hyperboleon diatonos |
Nete hyperboleon |
古代ギリシャの音階には大完全音階の他に、メセーの上に全音を置かずにすぐにテトラコルドを重ねる、次の「小完全音階」もありました。
+ | -------------- | --- | + | --- | ネーテー・シュネーメノーン | (d) |
+ | テトラコルド | + | ||||
+ | --- | + | --- | パラネーテー・シュネーメノーン | (c) | |
+ | + | |||||
+ | --- | + | --- | トリテー・シュネーメノーン | (b♭) | |
+ | -------------- | --- | + | --- | メセー | (a) |
+ | テトラコルド | + | ||||
+ | --- | + | --- | リカノス・メソン | (G) | |
+ | + | |||||
+ | --- | + | --- | パルヒュパテー・メソン | (F) | |
+ | -------------- | --- | + | --- | ヒュパテー・メソン | (E) |
+ | テトラコルド | + | ||||
+ | --- | + | --- | リカノス・ヒュパトン | (D) | |
+ | + | |||||
+ | --- | + | --- | パルヒュパテー・ヒュパトン | (C) | |
+ | -------------- | --- | + | --- | ヒュパテー・ヒュパトン | (B) |
+ | 全音 | + | ||||
+ | -------------- | --- | + | --- | プロスランバノメノス | (A) |
この小完全音階では自然にb♭が現われていることが面白い点です。 実は、この小完全音階に特徴的なシュネーメノーンのテトラコルドは次のフクバルドが理論の中に積極的に取り入れることになるもので、それが後の b-fa/b-mi の二重性の源になったと言えるでしょう。
シュネーメノーンは synemmenon と綴られます。
フクバルド Hucbald de Saint-Amand (840年頃生、930年没)の『音楽教程 De harmonica institutione(あるいは Musica)』は教会旋法を初めて理論的に明確化した書として名高いものですが、この書の実際の目的は修道院聖歌隊の訓練に必要な音楽の知識を体系的かつ合理的に理解させることにあったようです。 そのため聖歌を実例として挙げながら理論を説明していくという教育的・実践的な記述が一つの大きな特徴で、その点がボエティウスの流れを汲む理論書とは大きく異なるようです。
※ラテン語原文はTMLの 9th-11th centuries 参照。 英訳が次の書物にあるようです。 Claude V.Palisca, ed., Hucbald, Guido, and John on Music (New Haven: Yale University Press, 1978)
さて、以下では、フクバルドの音階論をあまり教会旋法に深入りせずに説明していきたいと思います。 ボエティウスの『音楽教程』は、先程も述べたように中世を通じて熱心に学ばれたわけですが、その中の音階論自体は古代ギリシャの音階の説明でありました。 一方、フクバルドは、聖歌と教会旋法の理論に適合させるために上で説明した大完全音階に対して決定的な再解釈を施しています。 以下、それについて説明します。
フクバルドは上の大完全音階を、まず、全音-全音-半音の下行するテトラコルドが4つ組み合わされたものとして説明します。 これは上のボエティウスをほぼ踏襲するものと言えるでしょう。
次いで、この大完全音階を、今度は、全音-半音-全音の上行するテトラコルドが組み合わされたものとしても説明するのです。 具体的には次のようにやります。 まず全音-半音-全音のテトラコルド二つを直接結合した(conjuncta)ものを二組用意します。 次に、その二組を全音だけ離して結合(disjuncta)します。 さらに一番上に全音を加えると2オクターブの大完全音階の音の並びが再現されます。 次はそれを図式化したものです。
+ | -------------- | --- | + | --- | (aa) | |
+ | 全音 | + | ||||
+ | -------------- | --- | + | --- | (g) | |
+ | テトラコルド | + | ||||
+ | --- | + | --- | (f) | ||
+ | --- | + | --- | (e) | ||
+ | + | |||||
+ | -------------- | --- | + | --- | (d) | |
+ | テトラコルド | + | ||||
+ | --- | + | --- | (c) | ||
+ | --- | + | --- | (b) | ||
+ | + | |||||
+ | -------------- | --- | + | --- | (a) | |
+ | 全音 | + | ||||
+ | -------------- | --- | + | --- | (G) | |
+ | テトラコルド | + | ||||
+ | --- | + | --- | (F) | ||
+ | --- | + | --- | (E) | ||
+ | + | |||||
+ | -------------- | --- | + | --- | (D) | |
+ | テトラコルド | + | ||||
+ | --- | + | --- | (C) | ||
+ | --- | + | --- | (B) | ||
+ | + | |||||
+ | -------------- | --- | + | --- | (A) |
このテトラコルドの組み換えで、下から二番目のテトラコルドに注目すると、それは(後世の呼び名で) DEFG の4音からなります。 フクバルドはこの4音を、8つの教会旋法を支配する4つの「フィナリス finalis (終止音)」であると説明するのです。 すなわち D は正格/変格プロトゥス protus のフィナリス(終止音)であり、E は正格/変格デウテルス deuterus の、F は正格/変格トリトゥス tritus の、G は正格/変格テトラルドゥス tetrardus のフィナリス(終止音)ということになるのです。 まさにここで、ボエティウス流の大完全音階は教会旋法に適合する形に読みかえられたことになります。
※教会旋法については次のページで説明していますが、一言で言うならそれはグレゴリオ聖歌の全部を8つの旋法に分類しようという壮大な分類理論です。 大雑把に言って分類は以下のようになされます。 まず聖歌がどの音で終わるのかその終止音(フィナリス)を見て上のようにプロトゥス(D), デウテルス(E), トリトゥス(F), テトラルドゥス(G)の四つに分けます。 次に聖歌全体の音域(アンビトゥス ambitus)に注目し、音域が広いときが正格、狭いときが変格になります。 これではあまりにも大雑把すぎるので、もう少し詳しく言うと、フィナリスからほとんど下がらずフィナリスの上に高くまで動く場合は正格、フィナリスからそれほど上がらずにしかし時として下には幾分深く下ることもあるような場合を変格と言います。
また、ボエティウスのところの最後にも述べましたが、フクバルドはメセー(a)の上に、デイエゼウグメノンだけでなくシュネーメノーンのテトラコルドも用いられることを強調しました。 これにより聖歌に実際に見られるbナチュラルとbフラットの両方を理論体系の中に取り込むことができました。 以上をまとめたものが次の図です。
+ | --- | -- | + | -- | ネーテー・ヒュペルボライオーン | (aa) | |||||
+ | + | ||||||||||
+ | --- | -- | + | -- | パラネーテー・ヒュペルボライオーン | (g) | |||||
+ | + | ||||||||||
+ | -- | + | -- | トリテー・ヒュペルボライオーン | (f) | ||||||
+ | -- | + | -- | ネーテー・デイエゼウグメノン | (e) | ||||||
+ | + | ||||||||||
+ | --- | -- | + | -- | パラネーテー・デイエゼウグメノン | (d) | -- | + | -- | ネーテー・シュネーメノーン | |
+ | + | + | |||||||||
+ | -- | + | -- | トリテー・デイエゼウグメノン | (c) | -- | + | -- | パラネーテー・シュネーメノーン | ||
+ | -- | + | -- | パラメセー | (b) | + | |||||
+ | + | -- | ------------------------------------- | (b♭) | -- | + | -- | トリテー・シュネーメノーン | |||
+ | --- | -- | + | -- | メセー | (a) | -- | + | -- | メセー | |
+ | + | ||||||||||
+ | --- | -- | + | -- | リカノス・メソン | /テトラルドゥス | (G) | -- | + | ||
+ | + | + | フィナレス finales* | ||||||||
+ | -- | + | -- | パルヒュパテー・メソン | /トリトゥス | (F) | + | ||||
+ | -- | + | -- | ヒュパテー・メソン | /デウテルス | (E) | + | ||||
+ | + | + | |||||||||
+ | --- | -- | + | -- | リカノス・ヒュパトン | /プロトゥス | (D) | -- | + | ||
+ | + | ||||||||||
+ | -- | + | -- | パルヒュパテー・ヒュパトン | (C) | ||||||
+ | -- | + | -- | ヒュパテー・ヒュパトン | (B) | ||||||
+ | + | ||||||||||
+ | --- | -- | + | -- | プロスランバノメノス | (A) |
* finales は finalis の複数形です。また (A)(B)(C)... は後世の音名で、フクバルドのものではありません。
※上の図の表示が乱れるなどの場合は次のキャプチャー画像を御覧下さい →[hucbaldus.jpg]
またフクバルドは、Fをフィナリスとするトリトゥス旋法ではシュネーメノーンのテトラコルドが多用されるなんてことも指摘しています。 つまり、Fをフィナリスとする聖歌ではb♭が多く見られるということを、そのように表現しているわけですね。
このようにして、シュネーメノーン・テトラコルド付きのボエティウスの2オクターブが旋法理論を記述する基礎として定式化され、その後数百年の音階の基本となりました。
さて、これで音の並び自体は11世紀のものと変わらないものになったわけですが、個々の音の名称はギリシャ語のままでした。 実は、フクバルドはギリシャ文字による記譜法も提唱しているのですが、それは定着しませんでした。
※写本によってはフクバルドの論文の中で2オクターブの音階を表すのに ABCDEFGHIKLMNOP の15文字が使われている図が書かれているものがあるようです。例えば Brussels, Bibl. Royale de Belgique, Codex Bruxell.10078-95 では、器楽の音階として現在の C から始まる2オクターブの音階に A から始まる15文字が当てられているそうです。 つまり、そこでは写本の A は現代の C を表しています。 同時代の全く別の文献では現代の A に A が対応するやりかたで A-P の15文字が使われているケースもあるようです。 この混乱のためにフクバルドはギリシャ文字を使うことを好んだのではないかと次の論文は言っています。 Rembert Weakland: Hucbald as Muscian and Theorist, Musical Quarterly, 42 (1953), pp.66-84. またフクバルドの論文の中の A-P の文字は写字生 copyist によるものかもしれないとも述べています。
では現代にまで続く ABCDEFGというアルファベットのくり返しによる音名はいつから始まったのかというと、(もちろんはっきりいつからなんてことはわかりませんが、)このやり方で記述された我々の知る最初の文献は、次の偽オドによる『ディアログス(対話)』のようです。
『ディアログス(対話)』は比較的最近までクリュニーの大修道院長オド(878年頃生、942年没)の著作とされてきましたが、実際はミラノ司教区の無名の理論家によって11世紀初頭に書かれたものだそうです。 そのため、この不運な無名者には「偽オド」という偽物の名前がつけられてしまいました。
※中世にはこういう風に本人は何一つ悪くないにもかかわらず偽物の名前で呼ばれてしまってる人が少なからずいますね。
※ラテン語原文はTMLの 9th-11th centuries 参照。 Anonymous でなくて Odo のところにあります。 これの大半の英訳が次にあります: O.Strunks, Source Readings in Music History: The Early Christian Period and the Latin Middle Ages (Norton, 1950,1998).
さて、この『ディアログス(対話)』の内容はというと、師と弟子の対話形式で書かれた実践的な「音楽入門」です。 抽象的な理論をひとまず脇に置いた上でモノコルドの説明と調律法から話を始めるやり方など、次のグイドの『ミクロログス』などに影響を与えたものと考えられますが、内容的に関してさらに重要なのは、一つはオクターブで反復されるA-Gの七つのアルファベットによる音名を記述したこと、そしてもう一つは、後の規範となった8つの教会旋法の説明でしょう。
※『ディアログス』の旋法理論については、別のところで述べたいと思います。
アルファベットによる音名はこの書の二番目のセクションに現われます。 しかもそのセクションは、テトラコルドがどうこうという風に理論的に音階を論じているわけではなく、単にモノコルドの調律法を説明している部分なのです。 モノコルドの調律をしていく際に、音に名前を付けていくことになります。 そのとき付けられるのがアルファベットによる音名なのです。 そして、音階の構造自体はここでは調律の中に implicit に示されているに留まり、実際の音程関係は後のセクションで論じられるという構成になっています。 まさに実践重視の話の運びですね。
さて、そのアルファベットによる音名ですが、モノコルドの調律の最初に開放弦をギリシャ文字を使ってΓ(ガンマ)と名付けることから始まります。 次に開放弦を9等分してΓから9分の1進んだところを A と呼びます。 この A がボエティウスの大完全音階や、フクバルドの音階において最低音だったプロスランバノメノスに当たります。 つまりここで大完全音階の音域が下に全音だけ拡張されたことになります。 そして、最低音をΓから始めるというやり方は、その後数百年の間の標準的なやり方となります。
著作ではさらにその後も調律の手順が続きますが、その詳細は省略することにして、結果として得られる音階を書き下すと次のようになります。
Γ-A-B-C-D-E-F-G-a-b(柔)-b(堅)-c-d-e-f-g-aa
ここで、b(柔), b(堅)はそれぞれ前のページで説明した「丸い b」「四角い b」を表しています。 この音階、フクバルドの音階にΓを足して、アルファベットの名前を付け直したものになっています。
さらに、重要なことは、オクターブ離れた音に同じ文字が使われていることです。 ボエティウスの大完全音階やフクバルドの音階においては各音をギリシャ語の名前で呼んでいたわけですが、その名前は弦の場所やテトラコルド内の配置に基く名前で、オクターブ離れた音に対して特別な注意が払われているわけではありませんでした。
一方、この『ディアログス』において、オクターブ離れた音に同じ文字が当てられることで、我々がほとんど当たり前に思っているオクターブ離れた音は「同じ音」という認識が(この認識がいつ頃からのものかはわかりませんが)、記号として表現されるようになったことになります。
※上で説明したフクバルドの『音楽教程』には、オクターブ離れた音は異なる音域、すなわち、一つは男声の、もう一つは少年の音域にある同じ音であるという記述が実際にあります。 また、最古のポリフォニーの実例を記述していることで有名な『ムジカ・エンリアディス Musica Enchiriadis』(9世紀)には、オクターブは「協和 consonae というよりは 等しい音 aequisonae と言える」とあります。
さて、この「オクターブは同じ音」ということに関する興味深い記述が、『ディアログス』からそれほど間を置かずに書かれたであろう、グイドの『ミクロログス』の中にあります。 次にそれを見ることにしましょう。
グイド・ダレッツォ Guido d'Arezzo (991年〜992年頃生、1033年以降没)の名前にはこれまで度々言及してきましたが、ニューグローヴの「グイード・ダレッツォ」の項目によると彼の「教育者としての名声は、中世においてほとんど伝説と化していた」とあります。また、金澤正剛先生も『中世音楽の精神史』において「中世を通じて、最も実用的な功績を残した理論家といえばグイード・ダレッツォをおいて他には居ない」と仰っています。 一体何がそんなに偉いのかというと、次の三つの業績がグイドのものとされるからです。
第一に、楽譜に横線を引くことによって音の高さを明確に記せるようにしたこと。 第二は、前のページで説明した ut-re-mi...のソルミゼーション。 そして第三は、やはり前のページで説明した 「グイドの手」です。
これらのうち「グイドの手」は前ページで述べたようにグイドの著作には登場しません。楽譜に線を引くことは『アンティフォナリウムへの序文 Prologus in antiphonarium』という文書の中で説明されています。 ut-re-miについては前のページで説明しました。
さて、そんなハイパー修道士, グイドの主著が『ミクロログス Micrologus』ということになりますが、この書は「多声音楽と単旋聖歌についての考察を含む最古の包括的論考」で、「ボエティウスの音楽論に次いで最も頻繁に筆写され、読まれた音楽上の教育書」(いずれもニューグローヴより)ということになるようです。
※ラテン語原文はTMLの 9th-11th centuries 参照。 英訳は次にあるようです。 Claude V.Palisca, ed., Hucbald, Guido, and John on Music (New Haven: Yale University Press, 1978)
そういうわけで『ミクロログス』はその全てを詳しく検討してみる価値のある書物ですが、ここでは我々の目的に沿った事柄(第五章まで)に話を限定したいと思います。
『ミクロログス』も全体のイントロにあたる第一章を終えると、第二章では早速モノコルド上の音符について論じはじめます。 そこで彼の用いた音階は、上の『ディアログス』のアルファベットによる音階を踏襲し、それをさらにその上に四度拡張したもので、前のページの初めに紹介したものになります。
これに続き第三章で実際の調律法を述べ、第四章では六つの協和音程(全音、半音、長三度、短三度、四度、五度)について説明します。
そしてその次の第五章は「オクターブについて、そしてなぜ音符の数が7つなのか」と題されています。 ここは興味深いところなので少し詳しく見ることにします。
以下、Stefano Mengozzi, Virtual Segments: The Hexachordal System in the Late Middle Ages, The Journal of Musicology, Vol. 23 (2006), pp.426-467 の中の Guido's Tonal Space (p.429-)と題されたセクションを参照します。
グイドはまずオクターブが「同じ音」であるということを次のような言葉で表現します。
Sicut enim utraque vox eadem littera notatur, ita per omnia eiusdem qualitatis perfectissimaeque similitudinis utraque habetur et creditur.
(オクターブ離れた)二音は、同じ文字で記されているように、あらゆる点で同じ性質と最も完全な類似性を持つと考えられ、また見做される。
そしてこう続けます。
Nam sicut finitis septem diebus eosdem repetimus, ut semper primum et octavum eundem dicamus, ita primas et octavas semper voces easdem figuramus et dicimus, quia naturali eas concordia consonare sentimus, ut .D. et .d. Utraque enim tono et semitonio et duobus tonis remittitur, et item tono et semitonio et duobus tonis intenditur.
我々は、七日を終えて同じ七日をくり返し、常に一番目のものと八番目のものを同じ名前で呼ぶが、これと同様に、一番目の音と八番目の音を常に同じに記し同じに呼ぶ。なぜなら、 D と d のように、協和するそれらを鳴らすことを我々は自然に感じるからである。 というのは、それら(D と d)どちらからも、 全音、半音、二つの全音と下ることができ、また全音、半音、二つの全音と上ることができるからである。
Mengozzi は上記の論文において、グイドのこの記述の中にオクターブが「同じ音」であることについての二つのテーゼを見出すことができると指摘します。
一つ目は、知覚上の議論 a perceptive argument です。すなわち「同じ性質と最も完全な類似性の全てを通じて…受け取られる。(creditur)」そして「協和するそれらを鳴らすことを我々は自然に感じる」という主張です。 ここでは「同じ性質と最も完全な類似性」は直観的にオクターブの我々の耳への効果として捉えられています。
もう一つは最後の一文に示されている、オクターブの「最も完全な類似性」の理性的な説明 a rational explanation です。 すなわち、オクターブ離れた二つの音は音階内で同一の音程のコンテクスト modi vocum を持つという構造的な理由です。
ここで Mengozzi の言う modi vocum は、第七章の modi vocum 「音度旋法」とは若干意味合いが異なり、第七章のものの前段階の modi vocum と理解すると良いのだろう思います。 すなわち、第五章のこの箇所でオクターブ離れた音の旋法上の完全な類似性が確認され、さらに第七章で、オクターブ内部におけるより緩やかな旋法的な類似性が論じられるという二段構えの議論がなされているのだと思います。
Mengozzi は後者は前者を裏付けるやり方の一つと見做しています。
続く第五章の終りの部分で、グイドは、オクターブが「同じ音」に知覚されること、そして全ての音を七つの文字で示すことについて次のように説明します。
Unde et in canendo duo aut tres aut plures cantores, prout possibile fuerit, si per hanc speciem differentibus vocibus eandem quamlibet antiphonam incipiant et decantent, miraberis te easdem voces diversis locis, sed minime diversas habere, eundemque cantum gravem et acutum et superacutum tamen unice resonare, hoc modo:
それゆえ、二人三人あるいはそれ以上可能なだけの歌手が歌う際に、あるアンティフォナをこの同じ種類の音程(オクターブ)だけ異なる音によって始め歌ったとすると、様々な場所にある異なる同種の音が最小の差異を持つことに、そして、グラヴィス、アクートゥス、そしてスペルアクートゥスの音域に置かれた同じ歌が一つに響くことに驚くであろう。次の例のように:
g.aa. | aa. | G.aa. | aa. | bb. | cc. | bb. | aa. | g | aa. | aa. | |||
G a | a | G a | a | b | c | b | a | G | a | a | |||
Γ A | A | Γ A | A | B | C | B | A | Γ | A | A | |||
Sum- | mi | re- | gis | ar- | chan- | ge- | le | Mi- | cha- | el | |||
++ | ++ | ++ | ++ | ++ | ++ | ++ | ++ | ++ | ++ | ++ | ++ | ++ | ++ |
※ここで b, bb はいずれも「堅い b」(bナチュラル)を表します。
※グラヴィス(gravis), アクートゥス(acutus), スペルアクートゥス(superacutus)は第二章で定義されている音域の名称で、A-G がグラヴィス(gravis), a-g がアクートゥス(acutus), aa-dd がスペルアクートゥス(superacutus)となります。
Item si eandem antiphonam partim gravibus partim acutis sonis cantaveris aut quantumlibet per hanc speciem variaveris, eadem vocum unitas apparebit.
また、もし同じアンティフォナを、ある部分はグラヴィスの音域で、またある部分をアクートゥスの音域で歌ったなら、あるいは何であれこの種類の音程(オクターブ)だけ移し換えたとするなら、それらの音の同じ単一性は明白であろう。
Unde verissime poeta dixit: septem discrimina vocum, quia etsi plures fiant, non est aliarum adiectio sed earundem renovatio et repetitio. Hac nos de causa omnes sonos secundum Boetium et antiquos musicos septem litteris figuravimus...
それゆえ詩人(ウェルギリウス)はまったくもって正しいことを言った:「七つの異なる音*」。なぜなら、もしそれより多くのものがあったとするなら、それは別のものの追加ではなく同じものの更新あるいは反復であるのだから。 この理由によって、我々は全ての音を、ボエティウスや先達の音楽家にしたがい、七つの文字で表わしたのである…
* ウェルギリウス『アエネーイス』, 6.646.
明解な説明です。 これだけでも名著であることがわかりますね。 このようにして、オクターブが「同じ音」であることが明確に論じられ、記号法の上でも確立されたわけです。
さて、オクターブを同一視した上で音の種類を表す A-G の七つの文字は、上で言及した音階内のコンテクスト modi vocum の意味で用いるときに、後に、 clavis (「鍵」の意のラテン語)と呼ばれるようにもなったことを付言しておきたいと思います。 なぜ clavis 「鍵」なのかというと、一つの理由は以下のように音部記号として用いられたからです。
上で、グイドが『アンティフォナリウムへの序文 Prologus in antiphonarium』で楽譜に線を引くことについて説明していると言いました。 より具体的には、線あるいは線間の最初にそれが表す音のアルファベットを書き入れ、さらに F を赤色の線で C を黄色の線で表すと言っています。 なぜ F と C かと言うと、そのすぐ下が半音だということに注意を促す必要があったからでしょう。
その後、この色線を用いる方法は定着せず、代わりに線の最初に F あるいは C の文字を書いておくというやりかたが広まりました。 これがヘ音記号、ハ音記号という音部記号の起源です。 (金澤先生『古楽のすすめ』第五章参照。)
そして、この楽譜冒頭の F や C が clavis と呼ばれたのですが、それはこれらが譜表を正しく読み解くための「鍵」として理解されたからです。 楽譜を開けるための鍵ということですね。 また、音部記号を意味する英語 clef の語源はまさに clavis だそうです。 (New Grove の Clef の項参照。)