教会旋法について2

このページでは引き続き教会旋法についての話をします。前のページでは最も基本的なことのみを書きましたが、ここでは少しだけ詳しい話をしたいと思います。

●アフィニタスとアッフィナリス

聖歌が8つの旋法のどれに属するのかについて、前のページで、まずフィナリス=終止音を見て、それが D, E, F, G のときにそれぞれプロトゥス、デウテルス、トリトゥス、テトラルドゥスというように4つに分けると言いました。

すると次の疑問が生じます。 「フィナリス=終止音が D, E, F, G 以外だったときはどうなるの?」

結論を言うと、フィナリス=終止音が D, E, F, G 以外だったときも、やはりプロトゥス、デウテルス、トリトゥス、テトラルドゥスの4つに分類します。

※以下、音名は「中世の全音階と音名」の項のものを使います。

例えばフィナリスがDの4度下のAだったとしましょう。 このときAの音階内での他の音との位置関係に着目します。 AからABCDEと音階を順に上っていくときにどういう音程を上がるのかを見ると、全音、半音、全音、全音となります。 また下には一つ下のΓ(ガンマ)に全音下がることができます。

一方Dという音で同様のことを考えてみると、DからDEFGaと上がるときの音程はAのときと同じ全音、半音、全音、全音となります。 またDから下にはとりあえず一つ下のCに全音下がることができます。

つまりAとDは音階内で、周囲の音との音程関係が似通っているということになります。 すなわちAとDは音程関係=旋法的性質が似通っているという点で類縁関係にあるということになります。 このことを中世の人はいくつかの言い方で呼びましたが、一つの言い方としてAとDのような類縁関係を「音度間のアフィニタス affinitas vocum」(グイド『ミクロログス』第7章)と呼びました。 あるいは「音度の旋法 modi vocum が同じ」などとも言いました。

※ affinitas は「婚姻関係」の意味のラテン語です。また vocum は英語で言うと of voices の意味のラテン語です。

そしてAをフィナリス=終止音として持つ聖歌は類縁関係にあるDと同じプロトゥスに分類されます。

参考のため、グイドの説明を見てみましょう。(『知らない歌についての書簡 Epistla de ignoto cantu』より、Ut queant laxis の賛歌のすこし後に出てきます。)

Omnes autem voces in tantum sunt similes, et faciunt similes sonos et concordes neumas, in quantum similiter elevantur vel deponuntur secundum depositionem tonorum et semitoniorum: utputa prima vox A. et quarta D. similes et unius modi dicuntur, quia utraque in depositione tonum, in elevatione vero habent tonum et semitonium et duos tonos. Atque haec est prima similitudo in vocibus, hoc est, primus modus.

音度が似通っていて、似た響きや同義のフレーズ concordes neumas を為すのは、全音と半音の配置にしたがって同じように音階を上がり下がりする場合に限る。 そこで、第一音度Aと第四音度Dは似通っていて、「一つの(同じ)旋法に属する」と言われる。 なぜならどちらも下に全音を持ち、上に全音、半音そして二つの全音を持つからである。 しかもこれは音度間の類似性の第一のものであり、第一の旋法である。

同様に、BとEは共に全音-全音と下行し半音-全音-全音と上行するという類縁関係にあり、フィナリスがBならデウテルスということになります。 CとFは共に半音-全音-全音と下行し全音-全音と上行するという類縁関係にあり、フィナリスがCならトリトゥスということになります。

そして、このようにフィナリスD, E, Fと類縁関係にあるA, B, Cのことをアッフィナリス affinalis あるいはコンフィナリス confinalis と呼び、場合によっては正規のフィナリス(D,E,F,G)と区別しました。

またフィナリスがオクターブ異なるものも同じ旋法になります。 例えばフィナリスがd(=Dのオクターブ上)ならプロトゥスだし、c(=Cのオクターブ上)ならトリトゥスです。 『ミクロログス』の第5章では(『ミクロログス』の説明参照)、オクターブ離れた二つの音は「あらゆる点で同じ性質と最も完全な類似性」を持つと説明されていたので、当然といえば当然ですね。

※ D, E, F と a, b(堅), c のアフィニタスは、グイド以前に既にフクバルドの『音楽教程』でも説明されています。 また、このアフィニタスは、要は、ΓABCDEとCDEFGaが同じ音程関係を持つということを特定の音に着目して言っているのだとも言えるでしょう。 しかし D, E, F と A, B, C の類似性は、オクターブのような「完全な類似性」ではありません。 なぜなら、同じ音程関係を持ったままΓ−EとC−aの範囲をさらに拡げることはできないからです。

以上のようにして、聖歌が音階内のどの音で終わっていたとしても、その終止音=フィナリスによってプロトゥス、デウテルス、トリトゥス、テトラルドゥスの4つに分けられることがわかりました。 また、この4つをさらに正格・変格にわけるやり方は前のページで説明したのと全く同じです。 すなわちアンビトゥス=音域に応じて分類します。

グイドは『アンティフォナリウムへの序文 Prologus in antiphonarium』という文書において、以上のことを次のような表にまとめています。 ここで、I, II, III, IV, V, VI, VII, VIII は1から8を表すローマ数字で、第一旋法、第二旋法…を示します。

VIIIIIIVIIIIVVIIIIIIVIIIIVVIIIIIIVI
ΓABCDEFGab(堅)cdefgaabb(堅)ccdd
VIIIIIIVVIIIIVVIVIIIIIIVVIIIIVVIVIIIIIIVVIII

※ここでb(堅)はbナチュラルを表します。 「中世の全音階と音名」の項、参照。

さて、ここでさらに次のような疑問が出るかもしれません。 「bには堅いb(=bナチュラル)と柔らかいb(=bフラット)がありました。 上の表には堅いbしかありません。 柔らかいbについてはどうなの?」

「柔らかいb」が出てくるとちょっと話がややこしくなってきます。 グイドも『ミクロログス』では、「四つのモードを通じた音のアフィニタスについて」と題された第7章でDEFとABCのアフィニタスを論じた後、わざわざ章を変えて、「他のアフィニタス、そしてb(柔)とb(堅)について」と題された第8章で「柔らかいb」について説明しています。

まずグイドは柔らかいbはFと類縁関係にあるということを言います。 では柔らかいbはトリトゥスと理解すればよいかというと、ちょっと微妙な話になってきます。

グイドは言います。

In eodem vero cantu maxime .b. molli utimur, in quo .F.f. amplius continuatur gravis vel acuta, ubi et quandam confusionem et transformationem videtur facere, ut .G. sonet protum, .a. deuterum, cum ipsa .b. sonet tritum.

我々がとりわけb(柔)を用いるのは、低い、あるいは高い f や Fが、頻繁に連続して現われるような曲で、そこではGがプロトゥスとして、aがデウテルスとして、b(柔)がトリトゥスとして響くことになるような混乱 confusio と変形 transformatio が起こるのが見られる。

例えばGをフィナリスとする曲で、堅いbが現われず、もっぱら柔らかいbが用いられていたとするならば、その曲は音程関係=旋法的性質の上でプロトゥスとして響くということになります。 なのでGはテトラルドゥスでもプロトゥスでもありえるということになりますが、一つのフィナリスの音度が二重に二つの旋法に属し得るというのは、たしかに混乱を招きかねない事態と言えるでしょう。

前のページで「変則的なテトラルドゥスではb(柔)が用いられることがある」というニューグローブの記述を引きましたが、そのような曲の中にはフィナリスがGで形式的にテトラルドゥスに分類されているのだけれども、旋法的な内実はプロトゥスであると理解する方が良い場合があるようです。 ニューグローブではそういう曲に対して「G調プロトゥス」という用語を使っていたりもします。 aについても同様で、上の方の説明にあるように一般的にはaはプロトゥスということになるわけですが、b(柔)と結びつくときはデウテルスに変わり「a調デウテルス」となります。 このように、柔らかいbによって「G調テトラルドゥス」が「G調プロトゥス」に、あるいは「a調プロトゥス」が「a調デウテルス」に変えられることは、グイドの言葉にもあるように「変形 transformatio」と呼ばれたそうです。

そこでグイドは混乱を回避するために、次のようなことを言います。 「だがもしb(柔)が全く現われて欲しくないなら、F,G,a,b(柔)の代わりにG,a,b(堅),cを用いてネウマを組み合わせよ。」 「あるいはD,E,Fの後に上行で二つの全音と半音(そこでb(柔)に逹する)が必要となる、あるいはD,E,Fに続いて(Dの下に)下行で二つの全音が必要となる曲であるならば、D,E,Fの代わりにa,b(堅),cを採用せよ。」

ここで言われていることは(記譜上の)移高に関することでしょう。 すなわち、聖歌を楽譜に書きとめるときに、どの音高に書き記すのが良いのかという話だと思われます。

つまりこういうことです。 中世には「絶対音高」というものがありませんでした。 すなわち、A=440Hz みたいな基準はなかったわけで、聖歌も歌う際にも記譜の際にも移高は自由であったと考えられます。 なので、これまで各聖歌の属する旋法が云々ということを延々と言ってきましたが、そこで本質的なのは一つの曲の中での相対音高のみだということになります。 だから聖歌を楽譜に書きとめるのに、わざわざイレギュラーなことが起こるような書きかたをせずに、適切なところに移高して書いた方が合理的ということになるわけです。

では、移高ということによって全てのことが丸くおさまるようできるのかというと、そんなに話は単純ではないようです。 例えば正格デウテルスの曲で、aで終止するようにしか書きようがない曲があるそうです。 『幸いにもしもべは』という拝領唱(Communio: Beatus servus, LU1203)では、最初と最後のフレーズにb(柔)が用いられるのだけと、中間のフレーズではb(堅)が用いられるため、フィナリスがEになるように記譜することはできません。 なぜならEがフィナリスになるように記譜しようとすると、単旋聖歌の当時の記譜法には存在していないF#を用いなければならないからです。

一方、フィナリスが b(柔)として記譜されてる聖歌が実際にあるものかどうか、あるいはフィナリスを b(柔)として記譜しなければならないような聖歌があるのかどうか、私は知りません。

また、例えばトリトゥス旋法の一つの同じ曲が、ある聖歌集ではフィナリスがFであるように記され、別の聖歌集でフィナリスがcであるように(すなわち完全5度上に)記されているということは実際にあったようです。 (ニューグローヴ「旋法」の項目の譜例9(c)参照。)

なかなかに「柔らかいb」の位置付けは微妙なところがあって、トリトゥス旋法で「柔らかいb」は早くから本質的な音として認められていたにもかかわらず、偽オド『ディアログス(対話)』では「第2の第9音度」と呼ばれるなど、「堅いb」に対しては長いことサブのものとして扱われており、またグイドの言葉にもあるように「堅いb」の「変形」であるという風にみなされていたようです。

ところが、13世紀以降になると ut-re-mi...のヘクサコルドが単なるソルミゼーション・シラブルであるにとどまらずに旋法理論の組織の一部として組み込まれるようになり、それに伴って「柔らかいb」も他の正規の音と変わらない地位にまで昇格してくるようです。 このようなヘクサコルドと旋法理論の関わりも興味深いのですが、その話はまた機会があればどこかでまとめたいと思います。

もう一つ補足(蛇足)として、上で「一つのフィナリスの音度が二重に二つの旋法に属し得るというのは、たしかに混乱を招きかねない事態と言えるでしょう」と言いましたが、逆に、グイドより20才ぐらい年下のヘルマヌス・コントラクトゥスが提出したエレガントな旋法理論、「旋法の座 sedes troporum」の体系では、Dやdが二重にプロトゥスとテトラルドゥスの二つの旋法に属するという「二面性」を認めることが重要な要素であったことに言及(だけ)しておきたいと思います。

「旋法の座 sedes troporum」の体系についてここで深入りするのは得策でないので、何一つ言わないことにしますが、ヘルマヌスの理論の一つの出発点はおそらく、グイドの組織の中で「D,E,F にはそれぞれ A,B,C という相方がいるけど G には相方がいないよね」ということだったのだろうと思います。

これを理論的な不備と捉えたヘルマヌスの取った解決策は、「時と場合によっては D が G の相方である」というものでした。 すなわち、「周囲の音との関係によっては D はプロトゥスだけでなくテトラルドゥスの性質も持ち得る」というものです。 こうすることによりヘルマヌスはシンメトリックでエレガントな体系に到達するのですが、その話もまたいずれどこかでということにしたいと思います。

●教会旋法の適用の実際について

教会旋法に関するこれまでの話で、あたかも固定した文法規則を語るような説明から始めて、「b♭と変形」にまつわる理論上の厄介事へと話を進めてきましたが、ここで教会旋法の理論を実際の聖歌の数々に適用するとき生じるいくつかのことについて言っておきたいと思います。

さて、前のページで、聖歌の8つの旋法への分類はフィナリスとアンビトゥスによりなされると書きました。 実際、11世紀以降フィナリスとアンビトゥスは「曲の旋法を決定するのに必要不可欠であり、かつまた十分な要件」(ニューグローヴより)と考えられていたそうですが、この分類のやり方で、膨大な数の単旋聖歌の全ての曲を紛れなく8つの旋法に分けられたかというと、全くそうではありませんでした。

同じ曲が聖歌集によって異なる旋法に分類されてしまうことは、しばしばあったようです。

まず、前のアンビトゥスの説明に照らすと音域が中途半端に見える曲が、ある曲集では正格に、別の曲集では変格に分類されてしまうということがしばしばあったそうです。 逆に前のアンビトゥスの説明での正格と変格の音域を両方合わせたような広い音域の聖歌もあります。 ただ、この場合には正格に分類されているようです。

※『ディアログス』以来、正格・変格の分類のために、アンビトゥス以外にもいくつかの二次的な指標(反復音、詩篇唱定式のテノール等)が提案されています。

正格・変格のあいまいさというのはいかにも起こりそうなことですが、同じ曲が異なるフィナリスの旋法に分類されてしまうこと、例えば一つの曲がプロトゥスにもデウテルスにも分類されてしまうというようなこともあったようです。 (ニューグローブ「旋法」の項目p.481参照。)

こうしたことが起きるのは(西方の)単旋聖歌と教会旋法の成り立ちについて考えてみるとやむをえないことのようにも思えてきます。

以前ボエティウスのところでもニューグローヴの記述を引用する形で少し書きましたが、もともと西方教会の聖歌はカロリング朝以前から口伝の形で伝承されてきたものでした。 そのレパートリーに対して、教会旋法の理論は、西方の聖歌の伝統の内部から理論が形成されたというわけでなく、その伝統の外部のもの、すなわち東方教会の旋法組織「オクトエコス」を基盤としてさらにヘレニズム(古代ギリシャ)の用語や理論を用いて理論化をするというプロセスを経て形成されていったものでした。

既存のレパートリーを後から、しかもよそから借りてきた組織や理論を用いて理論化しようとしたわけですから、カバーしきれない曲が出てきてしまうのも当然といえば当然でしょう。

また伝承が口伝であったことも要因だったでしょうが、同じ曲なのに旋律が微妙に異なって伝承されてしまうケースもあったようです。 つまり一つの聖歌に無数のヴァリアントが生まれてしまうわけで、こうなると全く異なる旋法に分類されてしまうことがあるのも当然ですね。

もう一つ、伝承が口伝であったことに関連して、聖歌を楽譜に書きとめる記譜法の開発と、教会旋法理論の建設は同時並行的に起こり、相互に絡み合いながら発展してきたことにも注意しておいてよいでしょう。

もちろんこれには実際的な理由があったはずで、というのは時代が進むにつれ聖歌のレパートリーは膨大な量に膨れ上がり、口伝での伝承が難しくなっていったというのが一つの理由でしょう。 すなわち、記憶に頼らない正確な伝承のための記録の手段としての記譜法、そして膨大なレパートリーを整理、配列するための旋法理論が同時に必要とされるようになったのだろうと考えられます。

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Last modified: 2011/1/29