11世紀にその基礎が確立された教会旋法の基本的な考え方はおおよそ「教会旋法1」、「教会旋法2」で説明した通りだと思いますが、その基本部分は中世を通じてそれほど大きく変化しませんでした。 一方現代の教会旋法の説明は「教会旋法3」の最初に挙げたような音階(オクターヴ種)による説明が普通だと思われます。 中世と現代の旋法の考え方の違いは、中世から現代の間のどこかの時点で旋法の理解の仕方が変わったことによるのだろうと想像できますが、実際にその通りで、16世紀に旋法理解の転換が起こったということを「教会旋法3」のページの最後のコメントで言及しました。
ここでは、中世から16世紀の転換に至る道を非常に粗く説明します。 参考文献は次の本です。
Doleres Pesce: The Affinities and Medieval Transposition, Indiana University Press, 1987.
※この本は本当に勉強になる本です。 アフィニタスに焦点を当てて旋法理論の変遷を辿っている書物ですが、これを読むと旋法理論における種々の概念の理論家間での微妙な差異や時代による変化の様子などがよく理解できます。 手に入りにくいかもしれないし素人には読むのが少し大変かもしれませんがオススメです。
まず、くどいようですが、「教会旋法について2」のページで説明したアフィニタスとアッフィナリスについてざっと振り返っておきます。
11世紀の教会旋法の理論において正規のフィナリスは D,E,F,G の4音でしたが、D,E,F についてはその4度下の A,B,C, あるいは5度上の a,b(堅),c がそれぞれ D,E,F と「同種の」フィナリスと見做され、アッフィナリスと呼ばれていました。 そして A や a は D と同じプロトゥス旋法のフィナリスと見做され、同様に B, b(堅) は E と同じデウテルス旋法の、C, c は F と同じトリトゥス旋法のフィナリスと見做されるのでした。 このような同一視の根拠は、それらの周囲の音程関係が類似していることでした。 すなわち CDEFGa という6度と ΓABCDE, Gab(堅)cde という6度は同一の音程関係を持っているからでした。 この6度を Dolores Pesce は「旋法の核 modal nucleus」と呼びました。 しかしながらこの D,E,F と A,B,C, あるいは a,b(堅),c の類似性は完全なものではありません。 共通する6度の音程関係を全音階内でさらに広げることは不可能だからです。
さて、グイドは「柔らかい b」(= b♭)を混乱のもとだと言いました。 例えば、本来プロトゥスのフィナリスとなるべき a が「柔らかい b」と組み合わされると、その a はデウテルス旋法のフィナリスに「変形」されてしまうということが起こるからでした。 そこでグイドは「柔らかい b」はできるだけ避けよと言いました。 このグイドの「柔らかい b」に対するネガティヴな見解は、後の理論家たちにも多大な影響を及ぼしました。 前にも言及したように、変形したフィナリスでしか記譜のしようのない聖歌が存在しますが、それらは例外的で不規則な例と見做されました。
ざっくり言って、以上が11世紀に始まり15世紀前半ぐらいまでに主流だった旋法についての考え方です。
もう一度標語的にまとめると、アフィニタスは5度上の音との同種性であり、「柔らかい b」と組み合わされた「変形」フィナリスは4度上の音との同種性と言うことができます。
上で言ったように、グイド以降の理論家はグイドの影響でこの4度上の変形フィナリスについて積極的に扱うことが少なかったのですが、「柔らかい b」を使えば、正規のフィナリスと変形フィナリスの類似性を完全なものにできることにも気づいていました。 それはこういうことです。
通常の5度のアフィニタスでは高々6度の「旋法の核」の音程関係だけが共通でした。 しかしながら、「柔らかい b」を常に用いることにすれば、現代の意味での4度上への厳密な移高が実現できてしまい、正規のフィナリスと変形フィナリスの周囲の音程関係は完全に共通にできてしまいます。 CDEFGab(堅)c (現代のハ長調の音階)と FGab(柔)cdef (♭の調号が一つのヘ長調の音階)のオクターヴの音程関係は同一で、これはどこまでも続けられるからです。
一つの見方、但し全く中世的でない見方として、この時代は高々6度の「旋法の核」のみが保たれる限定的な類似性の5度のアフィニタスが主で、より完全な類似性をもたらす変形フィナリスは隅へ追いやられていたという言い方もできるでしょう。
ところが15世紀後半以降になると状況が変わってきます。 ポリフォニー音楽の発達に伴い、bの♭が明確に調号として用いられるようになるなどの背景から、4度上の変形フィナリスをはっきりと認めるような記述をする理論家が現れてきました。 例えばティンクトーリスがそうです。
さらに16世紀に入ると、11世紀以来の「旋法の核」を旋法の本質と見做す認識が放棄あるいは拒絶されるようになり、むしろオクターヴ種の方が旋法の本質であるとする考え方が主流となって来ました。
前にも書きましたが、9世紀の『音楽論別記 Alia musica』以来、オクターヴ種や、もっと小さな単位の4度種、5度種等の音度種を教会旋法と関連付けて論じることはしばしばなされました。 しかしながら、16世紀以前にはこのような音度種は旋法の特徴付けの一部ではあるものの、音度種それ自体が旋法に最も基本的なものとは考えられていませんでした。
ではなぜ16世紀にオクターヴ種が旋法の本質であると考えられるようになったのでしょうか?
このことの背景には16世紀の理論家の多くが人文主義者(Humaniste)であった、あるいは人文主義者と関わりが深かったことがあるようです。 人文主義というのは古代ギリシャ・ローマの古典の教養を身につけることを通じて、教会の権威や神を中心とした世界観からの解放をめざし、人間性を復興しようとした運動でした。 これに習い音楽理論家たちも、古代ギリシャの音楽理論に彼らの理論の範を置こうとしたのです。 するとギリシャの旋法理論はオクターヴ種の理論だったので、教会旋法もオクターヴ種を基礎とすべしという認識にいたったのでした。
高々6度の「旋法の核」しか保たれないアフィニタスはオクターヴ種を基礎とする考え方と相容れません。 16世紀の理論家たちはこぞってアフィニタスに批判の矢を向け始めました。 そして、この動きの頂点としてグラレアーヌスが登場します。 彼は、「教会旋法3」の終わりで触れたように12旋法理論を提唱しました。 これは、オクターヴ種を基礎とする考え方からの自然な論理的帰結であったとも言えます。
現代の教科書や音楽史に見られる教会旋法についての簡潔な記述は大抵この16世紀の認識から直接連なっているものと思われます。 しかしながら、このことにより、教会旋法の元々の姿が見えにくくなっていることも否めないように思われます。 教会旋法が本来作られた目的や本来の用途を理解したいと思うならば、我々は次のように言わなければならないでしょう。
Back to Guido d'Arezzo!
次の節では、なぜ旋法理論が11世紀にあのような形を取るようになったのかについて考えたい(想像をめぐらしたい)と思います。
前の節で、11世紀の理論から16世紀の転換に至る道を非常に粗く概観しましたが、現代人にとっては中世のアフィニタス or 「旋法の核」を中心とした旋法理論より16世紀のオクターブ種を中心をした理論の方がわかりやすいのではないかと思います。 実際グイドの議論で D と a が同じプロトゥスのフィナリスを与えることの根拠として「旋法の核」である共通の6度を示されても「それはそうなのかもしれないけど」と腑に落ちない感覚が残ったとしても不思議ではないように思われます。
中世の理論をもっと納得できるようになるためには、中世の人々の心に接し、その思考回路を辿り直してみるしかないかもしれません。 しかし、それはひどく困難、というか現実には不可能なことです。
※金澤正剛先生は『中世音楽の精神史』のプロローグにおいて、繰り返し「中世の心に本当に接しているだろうか」と問うています。
ところが、中世人が当時置かれていた状況を十分に考慮しながら旋法理論の成り立ちのプロセスを鋭く洞察している音楽学者がいます。 アメリカの音楽学者 Richard Crocker です。 彼は、次の論文(の後半)で旋法理論が形成していく過程におけるいくつかの決定的な事象を再構成しようと試みています。
Richard Crocker: Hermann's Major Sixth, Journal of American Musicological Society, Vol.25 (1972), pp. 19-37.
この論文は、グイドより20才ぐらい年下のヘルマヌス・コントラクトゥスの「旋法の座」(「旋法の核」に相当)の意味するものを解きほぐしていくことによって11世紀までの旋法理論のエッセンスを描き出している論文です。
※少なくとも私はそのように理解しています。 ただ Crocker 自身のターゲットはむしろ Jacque Handschin のある著作を批判することにあったのかもしれません。
これまで、この一連の中世の音階や旋法に関する解説文で、私は、まず中世の全音階システムはこれこれで、聖歌はすでに固定的に楽譜に書き留められていると暗黙の内に見做して、これこれのときに聖歌はこれこれの旋法に分類されますよ、というような説明をしてきました。 これは既に一通り出来上がった理論を後から体系的に説明しようとするとそうするのが良いだろうという順序で物事を説明しています。
上の論文で、Crocker は、旋法理論が成り立っていく過程はまったくその順番ではなかったことを示唆しています。
例えば、私の説明の最初に登場した全音階システムが最初から中世の人々に共通の前提となるような実際的に運用できる対象としてあったならば、中世の旋法理論がオクターブを周期とした理論構成に最初からなっていたとしても不思議ではなかったろうともおもわれます。 ところが実際はそうでありませんでした。 例えば「教会旋法3」で言及した『音楽論別記 Alia musica』などを例外として、多くの理論家はオクターヴより小さい音程幅のモジュール(すなわち基本となる音程のユニット)を用いて旋法を説明しようとしています。
フクバルドはボエティウスの「大完全音階」のテトラコルドの構成を旋法理論に合うようにわざわざ組みかえてフィナリスのテトラコルドを導入しました。 何度も言いますがグイドのアフィニタスは「旋法の核」の6度が共通であることがポイントでした。
※ヘクサコルドもその幅は6度でどういうわけかオクターヴに届いていませんでした。 ヘクサコルドと旋法理論の関係はやや込み入っていて、グイド自身は「旋法の核」の6度とヘクサコルドを結びつけることはしませんでしたが、後世(13世紀以降)の理論家が旋法理論の中に組み込みました。
Crocker はこう言います。 旋法理論を建設した理論家たちはまず第一に聖歌を歌う歌い手であり、次に聖歌を教える教師であり、最後に音楽理論家であったと。 つまり彼らはまず第一に実践家であって、ボエティウス流の「自由七科」の中の数の学問の一つである「ムジカ」を探求する思弁的な理論家ではなかったわけです。 彼らにとっては、2オクターヴにわたる「大完全音階」は、実際的にそれを乗りこなせるような音楽的な実体と言うよりは、理論的な抽象概念でしかなかったようなのです。
さらに、音を楽譜として書き留めるやりかたが定まっていない、あるいはそもそもそのやりかたが無い状況で、また「大完全音階」のような音階を可視化できるキーボードのような便利なデバイスも無い時代に、彼らにとってはオクターヴでも大きすぎる単位だったということは多いにありうることだと想像できます。 Crocker の言葉を借りるなら、"...there was a clear need for a scalar module of manageable size, such as a fourth or a fifth."
このような状況下で、口伝のみで知られていた聖歌の膨大なレパートリーを、一体どうやって楽譜に書き留め、8つの種類の旋法に分類することができたのでしょうか?
われわれは既に出来上がったものを見て、この聖歌は D で終わっているからプロトゥスの曲だとか E で終わるからデウテルスだとかと判断します。 すると、まず聖歌が楽譜に書き留められるという段階があって、その後で分類が行われたというプロセスを想像することができ、また、それが自然なプロセスのようにも感じられるかもしれません。
ところが Crocker はまったく逆のプロセスを示唆します。 すなわち、8つの旋法への分類それ自体が最初のステップで、楽譜にどう書き留めるかはその次の段階だというのです。
ここで「楽譜にどう書き留めるか」と言いましたが、これもより精密には少なくとも二つのことにわかれます。 一つは楽譜というものをどう実装するかということで、大完全音階上の音符を対応させるどのような記号体系をつくるかという問題です。 こちらは記譜の枠組みあるいは形式に関する事柄です。 もう一つは、個々の聖歌にとってより本質的な問題ですが、それぞれの聖歌が大完全音階の上のどの部分に配置されるべきか、あるいはそもそもその聖歌は大完全音階の上にうまく乗せられるのか、という構造的な問題です。
※実際は Crocker は「楽譜にどう書き留めるか」などという言い方はしておらず、すぐ上に書いた二番目のこと、すなわち聖歌の音階上への配置を二番目の段階だと言っています。 正確には "At some point the finals were projected onto a diatonic system." と言っています。
以上のことを念頭に置いて Crocker の議論を辿ってみましょう。 先ほど言ったように Crocker は、聖歌の分類それ自体が最初のステップだったと考えます。 分類はフィナリスを基準に実行されます。 すなわち、聖歌の最後の音(フィナリス)を基準として、聖歌の途中でフィナリスの近くにフィナリスから相対的にどのような音程関係にある音が現れるかによって分類がまず行われたのだろうと言います。 すなわち、聖歌は D で終わっているからプロトゥスなのでなく(この段階ではそもそもまだ楽譜に記されていないことに注意!)、聖歌の中にフィナリスから下に全音、上に全音-半音-全音-全音という音程の音が現れるからプロトゥスである、という分類がなされたのだろうと言うのです。 つまり、それぞれの聖歌は、フィナリスを原点とした聖歌内の音の相対的配置によってどの旋法に属するが決定されるというプロセスがまず第一にあった、というのが Crocker の考えです。
しかも、興味深いことに、分類がなされた時点では、聖歌の膨大なレパートリーが共通の一つの大完全音階の上にはみ出すことなく配置できるかどうかはわかっていなかっただろうと Crocker は言うのです。
※この洞察はちょっと凄いと思います。
というのは、もし仮に聖歌の中にいわゆるアラビア音階に属するようなものが含まれていたとしたなら、当然それは全音階の上には乗りません。 (もちろん現実にはそんな exotic な聖歌は存在しませんでしたが。)
そして、第二のステップとして、膨大な聖歌のレパートリーを大全音階の上に配置するというプロセスが続きます。 Crocker 自身の言い方では "The projection of the finals upon a common scale"です。 このステップは長い試行錯誤が必要な困難なプロセスだったと考えられます。 そして結局、全ての聖歌を収めるのに、大完全音階では少し足りず、b♭を含むシュネーメノーンのテトラコルドを合わせた音階、別の言葉では大完全音階と小完全音階を合わせた音階に、ほぼ全ての聖歌を収めることができるようになりました。
※シュネーメノーン・テトラコルド、大完全音階、小完全音階については「中世音楽の音階、音名、ソルミゼーション2」参照。
聖歌の旋法の分類と記譜がこのようなプロセスで行われたとするならば、プロトゥス旋法の曲にフィナリスが D のものもあれば a のものもあるという理由が自然に理解できます。 フィナリスが D の曲も a の曲も、元々は第一段階の分類のときに、フィナリスを基準としたフィナリスの周囲の音程関係によって同じプロトゥス旋法に分類されたのだけど、二番目の段階で全音階の上に収める際にフィナリスが D と a であるように分かれてしまったということです。
今「フィナリスの周囲の音程関係によって」と書きましたが、上で言及しているように、中世の人が分類に用いた尺度=モジュールはオクターヴに満たないものでした。 すると、フィナリスが D の曲と a の曲がグラレアーヌス流にドリアとエオリアという風に分かれることなく、どちらも同じプロトゥスに分類されるということが起こります。 しかもこれは Crocker の説明によれば楽譜に書き留める以前に起こったことです。
さて、ここで Crocker は、ひとたびフィナリスの共通の音階への projection が成し遂げられたならば、「次の問題はどのようにこの共通の音階を理解すべきか」であり、また「この点において、モジュール(基本となる音程のユニット)の選択が重要になる」と言います。 この辺りはだいぶ微妙な話であるので Crocker 自身の言葉を少し長めに引用します。 次は、上の問題に対するフクバルドの解答、すなわちボエティウスの大完全音階のテトラコルドを組み換え、フィナリスのテトラコルドを導入し、またシュネーメノーンのテトラコルドを取り込んだ、ということに対する一段落です。
The underlying moment in this process was (in terms I have suggested) to understand the extended pitch realm of the scale in terms of the relationship among the finals--that is, the relationships among any one final and the pitches above and below it and then the relationships among the finals when they themselves were taken to be the pitches above and below each other. This step led outside of and beyond any one final; to put it another way, the ultimate purpose of the tetrachord of the finals was not so much to understand a particular final in terms of a scalar construction as to understand a scalar construction in terms of the network of finals. For it was the scale, not the finals, that needed understanding. It is this difference that makes possible a positive appreciation of the later developments.
とりわけ印象的な部分を訳してみるなら「…フィナリスのテトラコルドの究極的な目的は、特定のフィナリスをある音階構成の言葉で理解することというよりはむしろ、フィナリスのネットワークの言葉で、ある音階構成を理解することであった。というのはフィナリスでなく、音階の方こそが、理解を必要としていることだったのだから。」
※凄すぎます。
この一文は直接的にはフクバルドのフィナリスのテトラコルドの導入について向けられた言葉でありますが、それはそのままグイド流の「旋法の核」(それはフィナリスを取り囲む6度でした)に対しても当てはまる言葉であると思われます。
アフィニタスを説明するのに、「全音階内を見回すと CDEFGa の6度と Gab(堅)cde の6度は音程関係が同じだから DEF と ab(堅)c は同種のフィナリスを与える」という言い方をしましたが、Crocker に倣うならこれは話が逆で、「旋法の核」の6度によって全音階を probing することでアフィニタスが見えてくると言う方が正しいということになります。
アフィニタスの説明を初めから後者のようにしようとしたとしても何のことやらさっぱり分からない説明になってしまうと思いますが…。
さらに、ここまで来ると、上で引用した最後の文の "It is this difference that makes possible a positive appreciation of the later developments." が何を言っているのかわかってきます。
11世紀の理論を整理された形で後世から見るならば、16世紀の人々がそうしたように、一貫性の不足など、その不完全に見える部分に批判の矢を向ける立場の方が理解しやすいということがありえます。 しかしながら、Crocker の洞察は、なぜ11世紀までの旋法理論があのような形を取っていたのかに対する一つの理解の仕方を与えており、彼の考察を通じて11世紀の理論がより納得しやすいものになると言えるでしょう。
もちろん Crocker の上記の試みは一つの潜在的な可能性、仮説でしかないのかもしれないません。また Crocker の言うように聖歌の旋法への分類と全音階への配置が截然と2つのステップに分かれてその順番に行われたということは一つの図式であって、実際のプロセスはもっと入り組んでいたかもしません。 しかしながら、Crocker の議論は、中世の人々が一体どういう考えであのような理論形式にいたったのかその思考過程の一可能性を示唆するものであり、中世の人々の心に近づき中世の人々の心によって彼らの築き上げたものを理解しようとする努力を具体的に実践してみせるものだと思われます。 そういう意味で Crocker の洞察は意義深いものだと思います。