●序
1999年の冬のこと、結構な勢いで中世の音楽にはまっていっていた私は インターネットである本を注文しました。
それは Willi Apel によるアンソロジー
- Willi Apel, French Secular Music of the Late Fourteenth Century, the Medieval Academy of America, 1950.
それでこの曲集の譜(録音のされていない曲も多い)を「目」で読んだり、 鍵盤で鳴らしたりしていたのですが、このくらいポリフォニーが複雑だと なかなか全体像がつかみづらい……。だったら機械にやらせてしまえ、 MIDI ならいろんな音色が使えるし、Panpot をバラバラにしてやれば 音も分離できるし…ということで、一曲また一曲と出来ていった(乱造した)のが これらの MIDI データ(Part 1:Ars subtilior)です。
そういうわけなので、ほとんど譜に書かれている音符を そのまま打ちこんだだけのものが多いです。 とはいうものの、曲自体がちゃんと鳴るように設計されているものなので、 それなりに聞けるものも多いのではないか、とも思っています。
さて、中身についてですが、 これらのレパートリーが「広く世に知られている」 ということはおそらくないと思うので、以下少し解説をしてみたいと思います。 しかしながら、私自身これらについて十分な知識を持っているわけではないので、 以下の記述は、説明が不十分であったり、誤りを含んでいるかもしれませんので、 その点については御了承ください。 (以下、上記の曲集の中の Apel による解説や、CD の解説などからの受け売りです。)
Part 1: Ars subtilior におさめられたレパートリーは14世紀末から15世紀初頭のフランスの(フランス語で書かれた)世俗歌曲です。
ここでいう14世紀末から15世紀初頭は、 ギョーム・ド・マショー(アルス・ノヴァ)とギョーム・デュファイ(初期ルネサンス) という二人の巨匠の間の時代のことをいっています。 この時代の音楽様式はアルス・スブティリオール Ars subtilior (「より繊細な技法」の意)と呼ばれ、 マショーらのアルス・ノヴァの様式をその弟子たちがさらに徹底的に発展・洗練させた もので、時として極端・複雑・難解な様相を呈する特異な音楽たちです。
フィリップ・ド・ヴィトリにより提起され、マショーらが発展させたアルス・ノヴァという様式も、 もともと、より多様なリズムを求めて記譜法を洗練させることから始まったもので、 多様なシンコペーションやアイソリズムの技法の使用など、 十分複雑で知的な様式であったと言えます。 しかし、マショーの死後この動きはさらに加速し、また彼の弟子たちはイタリアのトレチェント音楽の 要素も採り入れて、やがて複雑さや知的傾向は頂点に達します。 これがアルス・スブティリオール Ars subtilior と現在呼ばれている様式で、音楽史上これに 比肩しうる複雑さや知的傾向を示す時期は20世紀の前衛音楽以外にないという点で、 「14世紀の前衛音楽」と言われたりすることもある音楽です。
と、ここまで書いてみて、アルス・スブティリオールを知らないという人がマショーも デュファイもアルス・ノヴァも知らないという可能性はわりと大きいのでは、ということに 気付きます。 だとすると、少しは音楽史の解説(のようなこと)をしないとサーヴィスが悪いと 言うことになりますね……。でも、これはとても大変なので今後の課題とさせて下さい。
能書きはともかく、まずは音を聞いて頂くのが良いのではないかと思います。 (次項へお進み下さい。)
●Ars subtilior の音楽は初めて、という方には
Ars subtilior の音楽を耳にするのが初めてという方にまずお勧めなのが 「描写的ヴィルレー」です。 次の4曲は鳥の声の模倣が聞こえる軽快で親しみやすいヴィルレーです。
1.と2.は親戚関係にある2曲です。 同一の内容の歌詞が使われ、それが1.はフランス語、2.はワロン語と言うベルギー南部の方言、 で書かれています。 どちらも同一のテノール旋律〔森のかわいい夜うぐいす〕(民謡と考えられている) を持ち、上声部(superius)も似通っています。
3.と 4.も、引き延ばされたテノール声部の上で鳥の声の模倣をやるなど、作り方が良く似ています。
より Ars subtilior 的な「鳥の歌」としては Jacob de Senleches の次の曲があります。
- En ce gracieux tamps
戦争をテーマに、 ファンファーレをモチーフとした Grimace の次の曲があります。
さて、いかがだったでしょうか。ポリフォニーが豊かであると思っていただけたら わたしとしてはうれしいです。 次の2項はちょっとした予備知識です。●中世フランス世俗歌曲の3つの定型について
中世の歌曲には次の三つの定型 formes fixes があります。- ロンドー rondeau
- ABaAabAB という形。(アルファベットは異なる二つの楽節をしめす。大文字は歌詞が 不変なリフレインを表し、小文字は歌詞が変わってく部分を示す。)
- ヴィルレー virelais
- AbbaA と言う形。リフレインはAのみ。
- バラード ballade
- aaB という形。リフレインを含まない。
●Superius, Tenor, Contra, Triplum
このころの歌曲は2声から4声で書かれています。
(1声、すなわちmonophonic chanson はギョーム・ド・マショーを最後の人として、その
歴史の幕を閉じたそうです。
5声以上で書かれたものがあるのかどうかは私は知りません。)
声部には役割に応じて(音域に応じてでない) Superius, Tenor, Contra, Triplum の四つの名称
が付けられています。
Superius は、高い音域に置かれ、歌詞を担い、主旋律を歌う声部です。別名 Discantus, Cantus など とも呼ばれます。
Tenor は、低い音域に置かれ、音楽の(和声的な)核となる声部です。 この声部は、その昔オルガヌムやモテトでは定旋律が置かれていた重要な声部で、 世俗歌曲においても、それの延長上にある役割を果たします。 低い音域に置かれますが、現代のバスとは意味合いが異なります。
Superius + Tenor で基本となる2声体が出来上がります。
Superius + Tenor の基本となる2声体に、さらに声部を足すなら、 Contra が付け加わります。 Contra は Tenor と同じ音域におかれ、しばしば声部の上下は入れ替わります。 アルス・スブティリオールの最盛期には Contra は他の声部との独立度が高く、 和声的にもリズム的にも自由に動きまわる声部なのですが、ルネサンスが近付くにつれ 他の2声部の和声的・リズム的補完をする役割に落ち着いて行くという役割の変化をみせます。
Superius + Tenor + Contra の3声部構成が最も頻繁に用いられた声部構成です。
Superius + Tenor + Contra にさらにもう一声部付け加えると Triplum が登場します。 Triplum は Superius と同じ高い音域に置かれます。
実例はあまり多くないと思いますが時おり Superius + Tenor + Triplum という構成も見かけます。
2声 | 3声 | 3声(稀) | 4声 |
---|---|---|---|
Superius Tenor |
Superius Contra Tenor |
Triplum Supeirus Tenor |
Triplum Superius Contra Tenor |
●14世紀後半の音楽の3つのスタイル
Willi Apel はこのころの音楽のスタイルを3つにわけています。
- The Machaut Style
- マショーを踏襲したスタイル。 リズムの一貫性、統一性に特徴がある。
- The Manneristic Style
- 多様、難解、極度な複雑さ、細部にこだわる性質を示すスタイル。
- The Modern Style
- Manneristic Style の難解さ、複雑さを放棄することで、構成の単純さ、表現の 自然さを得たスタイル。
この区分にしたがって主要な作曲者を分類すると以下のようになるでしょう。
Solage は Machaut style から Manneristic style
Philipoctus, Senleches, Trebor, Anthonello は Manneristic style
Matheus は Manneristic style から Modern style
Cordier は Modern style
●Ars subtilior の代表的な写本
Ars subtilior の代表的な写本には次の三つが挙げられます。
- Chantilly 写本: Chantilly, Musee Conde 564, フランス 14世紀後半
- Modena 写本: Modena, Bibl. Estense Lat. 568, イタリア 15世紀前半
- Reina 写本: Paris, Bibl. Nat. nouv. acq. fr. 6771 (Codex Reina), (南西)フランス 14世紀後半