2月28日 (水) テンプルバームのこと
きょうで2月もおしまいです。2月は短い月ですが、お嬢さんにとっては、あたらしくはじめたアーキヴィストの見習いの仕事に慣れることにいっしょうけんめいな、すこし長い月でした。
作業がはじまったさいしょの週末は、夢のなかでも作業の続きをしてしまい、きちんと眠ることができませんでした。現在、これはお薬をいただくことで解消されており、ふだんの日も、ゆっくりできる音楽を聴いてからベッドに入るなど、いろいろ対策を講じております。
(しかし、うっかり「キノコたちが戦争に行く」を聴いてしまうともういけません。すこし前の日記で書いた、なにか官能的な夢を必ず見てしまいます)
音楽を聴くことと共に、お嬢さんが眠る前の習慣にしていることにテンプルバームを塗ることがあります。
テンプルバームは、よい香りを良質の油脂に練りこんだもので、耳の下やこめかみなど、よく脈をうつところに塗っておくと、よい香りが適度にただよって気分が落ち着きます。現在用いているのはイギリスのラッシュ社のものとマギーティスランド社のもので、どちらもラベンダーのような香りがもとになっています。
テンプルバームは、外国に出かけるおりにも便利に用いることができます。昨年のちょうど今ごろ、お嬢さんはアメリカに向かう飛行機に乗ってどこかの空を飛んでおりましたが、落ち着く香りとすっとする香りの2種類のテンプルバームを持って行きました。液体ではないので、これは今でも機内持ち込みは可能なのではないかと思います。
写真は、ニューヨークの国際空港の到着ターミナルです。昨年のちょうど今ごろのものです。
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2月27日 (火) 犬の時代の終わりのこと
ちょうど半月近く前、お嬢さんが、今従事しているあたらしいアーキヴィストの見習いの仕事のセットアップを終えて家に帰る道を歩いていると、むぅちゃんのままが、自転車の籠にむぅちゃんを入れ、自転車を押してぺぇちゃんの家の前に向かっているところに出逢いました。
むぅちゃんもぺぇちゃんも、ともにパグという種類の犬です。
ぺぇちゃんの家には、昨年までがぁちゃんというもう一匹のパグがおりましたが、年を取って天に帰ってしまいました。また、ぺぇちゃんも今年のお正月、ぺぇちゃんの飼い主一家が旅行に出かけているあいだに、獣医さんのところでひとりで天に帰ってしまいました。
お嬢さんがくらしている家の階下には大家さんが住んでおられますが、大家さんの家にも、むかし、マリヤという毛の長い犬が飼われていました。そのころ、前の家にはコロという雑種がおり、隣の家にもエルという日本犬がおりました。
お嬢さんがこの家で暮らそうと決めたのは、部屋の案内にずっとついてきてくれたマリヤがとても気に入ったからでした。大家さんはとてもよい方で、マリヤを部屋に連れて行くことを許して下さいましたので、お嬢さんはときどきマリヤを借り出し、なかなか言い出せない相談ごとなどを打ち明けたりしていろいろなことをのりきって暮らしていました。
マリヤは、お嬢さんが研究論文を書いているころ、16才とすこしで、難しい血液の病気にかかって天に帰りました。ちいさなお葬式に参加したところ、真珠を散らした美しい宝石箱をいただき、それはお嬢さんの宝物になっています。
翌年にはコロが天に帰りました。みんなで出かけていた犬の散歩は、犬より飼い主(および元飼い主)の人数が多くなり、そのうち、もう歩けなくなった犬たちを大きな乳母車に載せ、みんなで押して歩く会に変わりました。
昨年のある日の朝、お嬢さんが通勤の道を歩いていると、犬たちを載せていた藤製の大きな乳母車が不用品回収に出されていました。がぁちゃんが天に帰ったあと、悲しんだがぁちゃんの飼い主が、がぁちゃんに関するすべてのものを外に出してしまったことを大家さんから伺ったのはすこし後のことです。
がぁちゃんが天に帰ってすぐ、天気のよい日には外に出ていたエルの姿が何日も見えなくなりました。心配になって大家さんにたずねると、年をとって癌にかかっていたエルもまた天に帰っていったことを教えて下さいました。
ビーグル模様が年をとって霜降り模様になっていた姿を思い出します。
そのようなわけで、お嬢さんが出逢ったとき、むぅちゃんはこの通りでもうたった一匹の犬になっていました。
むぅちゃんの飼い主は、お嬢さんを見つけると、むぅちゃんは心臓がすっかり弱ってしまって、もう長くはないと思うから、いま、さようならの意味であちこちを廻っているの、あなたもお別れの意味でちょっと撫でてやってくれないかしら、とおっしゃいました。
立ち上がることも鳴くこともなく、籠の底で大きな眼を開いてこちらを見たままちいさな息をするむぅちゃんを撫でて、お嬢さんは家に帰り、すこし長く祈りました。
おととい、宅急便を引き取りに大家さんをたずねたおり、思いきってむぅちゃんのことをたずねると、大家さんは、むぅちゃんが入院先で天に帰ったことを教えて下さいました。
お嬢さんがむぅちゃんを撫でた日、むぅちゃんは縁のあった方々のところを廻って挨拶をしたあと病院に入り、そこで息をひきとったということでした。
これで、お嬢さんがこの家に暮らすようになってから友達になった犬たちはみんないなくなってしまいました。どの家でも、もう犬は飼わないということなので、なにか淋しい気持ちがします。
写真は、大家さんの家の居間でのんびりしているマリヤです。
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2月26日 (月) キノコたちが戦争に、のこと
先週の月曜日は、まうかめ堂さんと連れ立って、街の音楽ホールにエマ・カークビーの声楽とヤーコブ・リンドベルイのリュートの演奏会を聴きにでかけてきました。
心地よいやわらかな音楽にうっとりして先週を過ごしていたところ、昨日、思い立ってストラヴィンスキーの声楽曲を耳にしてから、こんどはどうにもその曲が身体から離れなくなってしまいました。
その曲は、「キノコたちが戦争に行く」という題名のついた5分半ほどの歌曲で、むかしレコードの付録として読んだストラヴィンスキーの生涯と年賦によれば、ストラヴィンスキーにとって、楽譜が公刊されたはじめての音楽になります。
この題名でウェブサイトを検索しても、あてはまる情報はほとんどありません。そもそも、英語の題名も「How mushroom went to the war」と「Mushrooms went to war」の2種類が通用しているようで、この歌曲が録音されているCDを探すことも未だにできていない状態です。
ふしぎな和声感とリズム感、ピアノの右手に出てくるふしぎな高音など、この歌曲にはそれからのストラヴィンスキーにつながるような要素がもそもそと滲んでいるように思われます。
まうかめ堂さんによれば、この曲の楽譜が発売されたのは1904年だということです。キノコが向かった戦争というのは日露戦争だったのかもしれません。
昨日は、ベッドに入る前にこの曲を5回ほど繰り返して聴いたところ、明け方になってひじょうに官能的で背徳的な夢を見て眼が醒めました。寝覚めがよいのか悪いのかわかりません。
あすは早起きをしなければならないので、このようなことがないよう、バッハのアリアを聴いて眠ろうと思います。
写真は、ワシントン郊外で撮影したきのこの写真です。
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2月16日 (金) 黒い車のこと
すこし前の日記で書いたように、お嬢さんは今週の火曜日から、あたらしい場所でアーキヴィストの見習いをかけもちするようになりました。
史料の整理をする場所は土曜日もフロアをあけているので、お嬢さんはあすも出かけます。しばらくのあいだ、土曜日は休日ではなくなりそうです。
史料の整理をする場所には、史料のほか、作業のための机とパソコンとかんたんなお茶のしたくがあります。
作業のための机には文房具がそろっていますが、みまわすと辞書や事典がありません。作業を依頼して下さった方にご負担をおかけしてはいけないと思い、買ってくださいを言い出せずにいたところ、きのう、ひょいと代表の方が作業室においでになり、お嬢さんを呼びました。
「これから階下に降りて、玄関に止まっている自動車にのって書店街にでかけてください。運転手さんが待っていてくれますので、そのあいだに必要な本を買ってきてください」
代表の方の仰る通りに階下に下りてみると、なにか大きな黒い自動車が止まっており、運転手さんが扉をあけて待っていて下さっていました。
むずむずしながら乗り込むと、自動車は書店街に向かって走り出し、大きな書店の前に止まりました。扉をあけていただくのを遠慮してじぶんで内側からあけたところ、扉を歩道の柵に当ててしまい、たいへんばつの悪い思いをしました。
急いで本をさがして自動車の場所に戻ると、運転手さんが運転席ですこし眠っておられるのが見えました。扉をあけていただくのを遠慮してじぶんで後部扉をあけたところ、不意をつかれた運転手さんを驚かせてしまい、ふたたびばつの悪い思いをしました。
きょうの午前中も、必要な本の買い出しの続きでした。運転手さんはお嬢さんの奇癖を承知したようで、扉は決して自分であけないでください、ということと、沿道の風景に不意に驚くとわたしも驚きますので、というやわらかなアドバイスをいただきました。
写真は、ワシントンの中心部にあるアメリカ合衆国国立公文書館本館です。この建物には合衆国の建国に関係のある重要な書類が展示されており、郊外にある分館にはたくさんの行政文書が移管されています。
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2月13日 (火) チャイコフスキー祭のこと
音楽を主な話題とするサイトに間借りをしているので、きょうは音楽についてのお知らせをいたします。
英国ラジオ放送第3チャンネル(BBC Radio3 http://www.bbc.co.uk/radio3/classical/index.shtml)が、2月10日より2月16日までの1週間、チャイコフスキーおよびストラヴィンスキーの全作品を連続放送しております(日程表はこちらです http://www.bbc.co.uk/radio3/schedule/day/)。放送はインターネットラジオを通じて聴くことができ、インターネットラジオの画面では、放送の終わったぶんを一週間前まで遡って聴くことができます。
日本と英国との時差は9時間なので、ちょうどよい時間に聴くことができなかったプログラムも、これによって楽しむことができます。
チャイコフスキーとストラヴィンスキーを並行して放送する理由はよくわからないのですが、ふたりの作曲家とも、バレエ、オペラ、交響曲、いろいろな楽器のちいさな作品や歌曲、宗教曲など幅広くの作品を残しており、かつロシア出身であることに理由があるのではないかとお嬢さんは考えます。
曲の演奏紹介のあいまには、ストラヴィンスキーとチャイコフスキーについて語る音楽家のインタビューや、ロシアおよびロシア音楽についての紹介などが流されています。
また、この連続プログラムの最終日はファン投票によるリクエストの日とされているほか、王立軍事歴史博物館における「1812年序曲 合唱つき版」の実況放送が予定されています。
お嬢さんは、7年ほど前、インディアナ州郊外におけるアメリカ独立記念日野外演奏会において、「1812年序曲」をはじめて聴きました。州軍が大砲を用意して、曲のタイミングにあわせてどんどんと鳴らしたあと、さいごは花火大会でしめくくられるたいへん華やかな演奏会でした。
写真は、演奏会がはじまる前の設営のようすです。ふつうのカメラで撮影したものをスキャナにとりこんでみました。
大砲のそばで説明をしているのは、州軍のスカウトもかねた州兵の方々です。古風な服装をしているのは、独立当時の扮装をして説明をしたり、いっしょに写真におさまって下さったりする州の歴史協会のボランティアの方々です。
このころは、テロが起こったり、戦争が始まったりすることなどだれも考えていませんでした。
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2月12日 (月) あたらしい仕事のこと
前回の日記からすこし時間があいてしまいました。
あす(火曜日)から、お嬢さんはアーキヴィストの見習いのひとつとして、あたらしい場所でもうひとつお仕事をすることになりました。
もう亡くなられてだいぶん年月がたっている方のところにたくさん残されている手紙や書類を整理したうえで、残された手紙や書類のあらましを知ることができるようなものを抜き出して本にする作業の手伝いをすることが仕事の内容です。
その方は大きな団体の会長をずっとしておられた方なので、作業は団体の本部にでかけて行います。作業の準備のために、先週は2度本部に伺いましたが、たいへんゆきとどいた準備をして下さっているのにおどろきました。職員食堂でごはんを自由にいただくことができる作業というのははじめてのことです。
たいへん荷が重いことに、お嬢さんはスーパーバイザーとして、何人かのお手伝いの方々に作業の方法を教えたり、仕事に来ていただく時間や日数の調節をしたりしなければなりません。そのための準備を家で行っていたため、日記を書くいろいろな余裕がなくなっていたのでした。
スーパーバイザーのような仕事もともなうアーキヴィストの見習いのお仕事は、何年か前に2回ほどお受けしたことがあります。
なんといいますか、クライアントのいろいろな都合によって、そのおりはたいへんな苦労がありました。いまでも、疲れているときにはそのことを思い出し、さらに疲れることがあります。
前回は作業の規模がたいへん大きかったため、スーパーバイザーはふたりでした。こんどはお嬢さんがひとりでその作業を行わなければなりませんので、心配はとても大きいです。
ともあれきょうはよく寝て、あすからは体力を消耗することがあまりないよう、ちゃくちゃくと作業をしようと思います。
写真は、祖母が、お正月におせちや餅といっしょにいただく伝統的な漬け物をこしらえているところです。手の大きさと、漬け物を混ぜているボウル(これはボウルというより、年末に蕎麦を打つための木製の大鉢です)の大きさから、たいへんな量をこしらえていることがわかります。
年末にいただく汁ものと同様、この漬け物にも名前がありません。本当に名前はないのですかと祖母にたずねたところ、祖母は、この漬け物はむかし、近所に住んでいた於多代さんという方に教わったので、於多代漬と呼ぶのがよいだろうということでした。おりがあれば作り方を書いておこうと思います。
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2月4日 (日) 手計量のこと
お嬢さんと妹は、むかし共同でハムスターを飼っていました。
もうずいぶん昔、お嬢さんと妹が通っていた小学校の生徒が誘拐される事件がおこったことがありました。誘拐された生徒はすぐに解放され、犯人も検挙されましたが、そのおり、生徒が離さずかかえていたのがハムスターでした。
これに触発された妹が父に頼んだところ、父は栗毛色をしたつがいの大きなハムスターと、飼育用品一式を揃えて下さいました。「さくら」と「うめきち」と名付け、さっそく飼い始めました。
なんといいますか、当時はお嬢さんも妹も、家族計画のようなものには無頓着でした。つがいをいっしょに遊ばせていた結果、さくらは2度お産をしましたが、ちょうど寒い季節であったため、こどもが大きくなることはありませんでした。
家にやってきた時からおとなであったため、さくらは2年半ほどで、うめきちはそれでも4年近くを暮らし、地に還りました。
その後、金魚や小魚を飼うことはありましたが、数年のあいだは哺乳類不在の時代が続きました。そのあいだに、お嬢さんは大学に進み、妹もまた進学で郷里を離れました。
学業を終えて郷里で仕事につくにあたり、妹はハムスターの入った籠をふたつ抱いて帰郷してきました。ひとりぐらし先でこっそり飼っていたようです。こんどのハムスターは銀灰色のこじんまりした種類で、それぞれ、「ろくすけ」と「ななこ」という名前がついていました。
その翌年の夏、大学院から帰郷していたお嬢さんは、ひょんなことから家に猫を招き寄せてしまい、ハムスターと猫の同居がはじまりました(そのころ、ろくすけは地に還り、妹が飼っていたのはななこだけであったように思います)。ハムスターは籠に入って妹の部屋におり、妹の部屋はいつも扉を閉めておりましたので、猫の手にかかる可能性は低いものと思われました。
猫とハムスターの同居がはじまって4か月ほどたった初冬のこと、お嬢さんが大学院の授業から帰ってくると、部屋の留守番電話が点滅していました。
再生してみると、妹が泣きながらなにか訴えているようです。しゃくり声ばかりが聞こえて要領を得ないので家に電話をしてみると祖母が出て、猫が妹の部屋に入り込み、ななこを襲って食べてしまったことを知らせて下さいました。
「ぜんぶたべてしまえば、行方不明になったという説明がついたのだけれど、頭だけを食べ残しておいたので、妹の気付くところとなってしまった」と、祖母は説明して下さいました。
それ以来、お嬢さんも妹もハムスターをふたたび飼うことはありませんでした。
いっぽう、猫のほうはハムスターがたいへん好みに合っていたせいか、それから3回、どこからか大きなハムスターをくわえてきました。祖母が近所じゅうをたずねたのですが、ハムスターの出所はわかりませんでした。
悲しい記憶の多いハムスターですが、籠から出して掌に載せて遊んだおりのあたたかさとやわらかさは、今でも掌にきちんと残っています。
お嬢さんが、ものの重さや大きさのたとえにハムスターをよく使うのはそのためです。
写真は、文中で言及した猫です。まるくなってよく眠っております。この猫もだいぶん年をとりましたので、生き物を取ることはもうあまりしなくなりました。
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2月3日 (土) かりんのこと
きょうは、昼から銀座ですこし仕事をしたのち、夕方からまうかめ堂さんとオルガンのリサイタルにでかけました。
リサイタルは、スウェーリンクとバッハを中心としたはなやかなものでしたが、演奏者の背中しか見るところがないためでしょうか、お嬢さんもまうかめ堂さんも、夢の中で演奏を聴いていたように思われます。
街の公会堂まですこし歩いたせいか、お嬢さんは演奏のとちゅうでのどと頭が痛くなっていることに気付きました。
バスにのって家の近くまで戻り、まうかめ堂さんを見送ったあと、家に戻って体温をはかってみたところ、はたして少し熱がありました。それでも、月曜日には、初対面の方々とすこし緊張する会議をしなければなりませんので、声を出すことが苦痛でなくなるよう、今はかりんの砂糖漬に湯をさし、ちいちいといただいているところです。
かりんの砂糖漬は秋にこしらえておいたものです。かりんは蜂蜜に漬けるのが通例ですが、ことしは柚子茶と同じく、薄切りにして砂糖とあわせてみました。以下にこしらえ方を書いておきます。
1、かりんは縦割りにし、種をとっておきます。種もあとで使います。
2、種をとったかりんをごく薄く切ります。かりんは切り口から変色してゆくので、作業は手早く行います。
3、薄切りにしたかりんに、さきほど取り出しておいた種を加え、同じ容積のグラニュー糖を合わせてよく混ぜます。
4、清潔なガラス瓶の底に分量外のグラニュー糖を厚く敷き、薄切りにしたかりんを箸などでつつきながらみっしり詰めてゆきます。口元近くまで詰めたら、分量外のグラニュー糖を厚くかぶせ、蓋をして冷蔵庫で保管します。
いただく時には、グラニュー糖のよくしみた薄切りをたっぷりとカップに取り、湯をそそいでいただきます。蜂蜜に漬けた場合よりかりんの香りと酸味がよく残り、色もよい感じがします。何回か湯をさしていただき、味がなくなったら、かりんの実は残します。
写真は、近くの公園の落ち葉を撮ってみたものです。
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2月2日 (金) ぎょうざのこと
水曜日は、父親が仕事で宿泊をともなう上京をしていたので、おたがいの仕事がおわった夕方に待ち合わせをして、いっしょに夕食をいただきました。
父親は水道橋に宿をとっており、お嬢さんは銀座で仕事をしておりましたので、待ち合わせはお茶の水ということになりました。父親とは、よくお茶の水で待ち合わせをします。
お茶の水で待ち合わせをすると、ふだんは神保町に出るすこし前の中国料理店にでかけるのですが、水曜日は趣向をかえて神保町まで坂を下り、大通りから一本入った通りにあるぎょうざ店にでかけました。
このぎょうざ店は、むかし大学で中国語と中国文学を習っていたおり、先生が教えて下さいました。神保町にでかけて資料や書籍をさがし、手軽においしい食事をいただいたうえでお茶をいっぷくいただいて帰宅するモデルコースとして、このぎょうざ店の名前をあげておられたのだと思います。
ぎょうざ店は、4人掛けの食卓が4つか5つほどの、たいへん小さなつくりです。メニューは焼ぎょうざと水餃子と肉饅頭の3種類で、焼ぎょうざは個数を選び、ごはんやお味噌汁と組み合わせていただくこともできます。
お嬢さんと父親は、焼ぎょうざ8個とごはんのセットをひとつづつ注文し、加えて水餃子をひとりぶん注文しました。焼ぎょうざは野菜の甘味が濃く、水餃子はしこしこした皮がよい厚さで、どちらもたいへんおいしくいただきました。
ぎょうざ店には、いつでかけても、背広を来た会社員ふうの方々がたくさんおられます。
ひとりでお店に来られた方が、背広を椅子に掛け、瓶ビールをコップにあけて飲み、ビールの友として付いてくる煎り豆をかじりながらぎょうざを待ち、ぎょうざの載った皿がやってくるなり、熱いところをさっそくいただいて心から幸せそうな表情になる一連の経過をながめていると、お嬢さんもいっしょにうれしくなるような感じがします。
そのような時は、なぜか、オルガンとソプラノによるアリア「羊たちは安らかに草を食む」が頭の中で流れ出します。アルコールをいただいているのに騒々しいところがまったくなく、みんながおいしそうに食事をいただいているためでしょうか。
写真は、ハーバード大学ロースクールにあるカフェテラスです。ロースクールのカフェは自分でお皿に食事をのせてレジに持ってゆく方式で、英語があまり上手でなくても食べたいものにありつくことができます。スープのようなものは、中国ふうのホットアンドサワースープです。
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