Diary 2006. 4
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4月24日 (月)  投企のこと

きのうの日記に書きましたように、きょうはお仕事をお休みさせていただき、お医者さんに出かけました。きのうはあれから少しだけ休むことができたので、起きてみて大丈夫そうでしたらお仕事に出かけることも少し考えましたが、やはりどうもいけませんでした。

お医者さんにでかけることも理由のひとつでしたが、大学院からお世話になっている先生にお会いすることも、きょうのお休みの理由のひとつでした。先生には昨年の11月からお目にかかっておりませんでしたので、今年お会いするのはきょうがはじめてです。

先生は、研究室で本に埋まって書き物をしておられました。過日のアメリカ訪問のおみやげをさしあげ、こんな方に出会いました、こんなところに出かけましたというお話をして、いっしょに食堂でうどんをいただきました。

うどんをいただきながら、ある種の地域研究や歴史研究にあるアンガージュ信仰のようなものに今でも意味はあるのでしょうか、とか、アンガージュとは対象への愛ではなく、けっきょくは「自分さがし」(かぎかっこをつけているのは、こんなものでしかないのではないですか?という意味があります)の都合のよいいいわけなのではないでしょうか、というお話を先生とのんびりとしました。先生にお会いすると、なにかお話したいことがゆるりと出てくる感じがします。これですこし身体がかるくなりました。

午後の授業に出かける先生をお送りしてからは、校地の草花をのんびりながめ歩きました。今の時節ですと、地面はたんぽぽの黄色と花だいこんの薄紫、樹の上ははなみずきの桃色と白やしもくれんの紫色、地面と樹のあいだは躑躅の深紅といろいろな草花の若葉色でうまっています。また、あまり手の入っていない林の中には大きな山椒が茂っており、ひとしきり摘んで家に帰りました。

もちろんお医者さんにも出かけたわけですが、お話をしたり、歩いたり、香りを楽しんだりすることで、お嬢さんはすこし元気になりました。

写真は、ケンブリッジ市内の古い建物です。一階と半地下の階は骨董品店がまとめて入ったモールになっており、上階はアパートになっています。このベランダはすこし怖そうです。


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4月23日 (日)  旅に病んで、のこと

すこしお知らせをいたします。

まうかめ堂さんによる、新しく入力した曲の発表がこのごろないのは、まうかめ堂さんが試験といいますか、発表といいますか、そのようなものを間近にひかえているためです。

まうかめ堂さんは、今週、ここ何年か考えておられた理論のようなものを文章や式の形にまとめたものを、大勢の先生の前で、画像の提示なども交えつつ、決められた時間内に発表しなければなりません。発表会場はまうかめ堂さんの住む地域とずいぶん離れた所にあるので、泊まり掛けになるとのことです。

昨日連絡をとってみたところ、まうかめ堂さんは脳を酷使し過ぎたとのことで、高熱を出して寝込んでおられました。熱以外の症状が見られないので、風邪やフルーではなさそうです。来週あたりになりましたら、また画面に戻ってきてくださるものと思われます。成功を祈っております。

ひるがえってお嬢さんのほうは、季節の変わり目による気管支の症状が今年は強く、少し困っています。いまは日曜日の真夜中ですが、息苦しいのが少し強く、これから横になって眠ることができそうにありません。そのようなわけで、まだ起きて端末に向かっております。

このようなおりは、授業中に別世界に行く時のように、食卓兼読書机に伏せてなるべく休むのですが、あまりよく寝付けません。週末には猫のいる郷里に戻ることもあるので、あすはお仕事をお休みさせていただき、お医者さんにでかけることにしました。

2月のアメリカ訪問のおりは、ボストンでひいた風邪が抜けないままニューヨークに来てしまったため、ニューヨークのホテルで気管支の発作がおこりました。冬は体調が安定する時期なのですが、室内と屋外の温度差から、たまに症状がでることがあります。

ひとりであれば、そのようなものだと肚を決めて時間をすごすのですが、ホテルの部屋は先生と同じでした。少しためらいつつ、それでも書くことにいたしますが、そこにだれかがいるのに、何も手がさしのべられないという体験はお嬢さんにとって初めてでした。

気管支に炎症が起きると、呼吸のたびに高い喘鳴音が起きます。それが気ざわりで眠れないのよ、と先生が仰ったおりには、お嬢さんはこのまま呼吸を止めてしまおうか、と真面目に思いました。

この日のできごとは、お嬢さんの中に強く残ったようです。帰国してから風邪が戻って寝込んでいた時や、眠っているあいだに発作が起きてしまったときなどは、この日のことを夢にみます。

写真は、飛行機からとったボストンの景色です。大きな川に浮かんでいるのは氷です。

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4月21日 (金)  訂正:かすてらのこと

数日来の日記に、いくつか訂正事項がありましたので、以下に書いておくしだいです。
うろ憶えでものを書いてしまい、申しわけありません。

1、マタイ受難曲について書いた記事ですが、プログラムの訳詩をよく読んでみましたところ、ピラトが群集にむかって、バラバとイエス、どちらを赦すのかをたずねたのは、いわゆる聖金曜日ではなく、その翌日の土曜日のことであることに気付きました。

当時、とらえた人をどのような刑にするかの権限は総督にありました。イエスが捕らえられたのは金曜日の夜のことでしたので、その日の総督の業務はおわっており、イエスをとらえた人は翌日の朝一番にイエスを総督のところに連れていったのです。

金曜日の夜から土曜日の朝までに起こったできごとは、最後の晩餐、女がイエスに香油を注ぐ、ゲッセマネでの祈り、ユダの裏切りとイエスの捕縛、ペテロの否認、までです。

2、昨日の日記のかすてらの切り方についてですが、あれからいろいろ思い出してみたところ、顧問の先生がおいでになる前に、お嬢さんはもう、かすてらを人数より1切れ多く切ってしまっていたことを思い出しました。

たとえば、切っていないかすてらが1本あって、それをふたりで1切れづついただくとすると、ナイフを1回入れればかすてらは2つになります(実際には、まず端から適度のところに1回ナイフを入れてかすてらをひとりぶんの厚さに切り、そのあともう1回ナイフを入れて、同じ厚さのかすてらをもう1切れ切り出すのでしょうが、そのあたりは適当に考えてください)。

3人で1切れづつでしたら、ナイフを2回入れればかすてらは3つになります。4人ならば3回です。このように、部屋の人数から1をひいた数でかすてらの長さを割り算すれば、人数分のかすてらが切り出されるはずでした。そこを、人数そのままで割り算をしてしまったので、かすてらが1切れ余分に切り出されてしまったのでした。木を数えるのと、木のすきまを数えるのとの違い、とか、本のコピーをとる時の枚数の数え方、とか、ちょっとした数の数え方や計算のしかたが、お嬢さんはひどく苦手です。

初仕事でもう失敗をしてしまい、叱られて落ち込んでいたところに、昨日の日記で思い出を書いた顧問の先生は来て下さったのでした。
先生は、おやつの中でもかすてらがとりわけお好きでした。初めての仕事で喜んでいただくことができ、お嬢さんはしあわせであったのだと思います。

写真は、ハーバード大学燕京図書館の朝鮮部の司書補の方のお名前と在任期間の部分をうつしたものです。司書は亡くなるまで勤めることができます。図書館の中には、中国の官服を着た初代の収書長の方をはじめとして、代々の司書や司書補の写真と任期があちこちに掲げてあります。

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4月20日 (木)  かすてらの思い出のこと

国際政治学会の新しい号の会報に、むかし、アーキヴィストの見習いのお仕事をさせていただいていた編纂室の、いちばん歳をとっておられた顧問の先生の追悼記事が掲載されていました。昨年の12月のはじめに世を去っておられたのです。

先生は、日中戦争がはじまる前からこのお仕事に就いておられ、戦争のあいだも、戦争が終わったその時も、そのあとも、60年近くアーキヴィストの仕事を続けておられました。アーキヴィスト、という職業の意味に気付き、日本でいちばん最初にそうであろうとしたのが先生であったのだと思います。

お嬢さんがここで見習いを始めさせていただいた頃には、先生はもうたいへん歳をとっておられたので、毎日仕事場においでになることはありませんでした。春の気持ちのよい日や、初秋の気持ちのよい日の午後にふっとおいでになり、ご自分の机でお茶をいただき、ファイルを繰り、ほかの顧問の先生方とお話をして帰ってゆかれました。

そのような、年に何度かの僥倖の一日が、お嬢さんがここでの見習いを始めさせていただいた初めての日でした。
その日の三時のお茶のお供はかすてらで、言い付け通りに部屋の人数を数え、かすてらの長さを割り算してナイフを入れていたところ、先生がふっとおいでになりました。続いて、やはりたいへん歳をとったもうひとりの顧問の先生もおいでになりました(こちらの顧問の先生も、もう世を去ってしまわれました)。
このような日は、思い出しても、お嬢さんがお仕事をさせていただいていた2年間のうちで絶後でした。これ以上かすてらを薄くすることはできませんでしたので、お嬢さんのぶんと、どなたかに渡るはずであったもう1切れを急いで菓子皿に並べ、お茶といっしょにお盆にのせて先生のところに向かったことが、仕事らしい仕事の初めてでした。

きょうから見習いをさせていただくことになりました、と挨拶をすると、先生は名刺をくださいました。どの先生のもとで勉強してきたのか、などのちいさな質問のあと、がんばりなさいと声をかけていただいたことを憶えています。

先生からは、2年間のうちに、特殊な辞書のつかいかたや専門用語の意味など、たくさんのことを教えていただきました。なにより、先生は、お嬢さんたちが史料としてあつかっている書類を作った人々と直接逢ったり話をしたことがある、かけがえのない方でした。

見習いのお仕事には、顧問の先生やお客さまにお茶とお菓子をさしあげたり、お話をうかがったりすることも含まれます。ドイツとソビエトが戦争をはじめた日のことや、日本がアメリカと戦争をすることになった翌年の仕事始めの日のことなど、先生にはかけがえのないお話をたくさん聞かせていただきました。

名刺に書いてあった先生のお住まいは、青山霊園のすぐ近くにありました。霊園に眠っておられるたくさんの方々に頼まれて、先生はいまもアーキヴィストの仕事を続けておられるのだと思います。

写真は、ハーバード大学燕京図書館の司書室の入り口です。司書室は図書館の入り口のすぐ近くにあります。すこし見えにくいですが、入り口のちいさなカードには、「ノックをして、いつでもご自由にお入りください」と書いてあります。

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4月19日 (水)  おから煎りのこと

大豆からソイミルクをこしらえたのは日曜日のことでしたが、月曜日にはソイミルクの副産物であるおからを煎り付け煮にしていただきました。

ソイミルクをこしらえる時には、ソイミルクの容積とほぼ同じぐらいのおからが残ります。今回はサラダボウルに1杯のソイミルクをこしらえたので、サラダボウルにさっと盛り1杯のおからが残りました。

ソイミルク同様、おからも足の早い食材です。ほんとうは、おからの煎り付けのための副材料を用意し、その日のうちに調理してしまうのがよかったのですが、今回はふと思い立ってソイミルクをこしらえることにしたので、おからのことまで手がまわりかねました。

おからを煎り付ける際には、副材料として、ごぼう、にんじん、れんこん、ねぎ、魚の練り物、などを加えます。魚の練り物に加えて、浅蜊のむきみを加えることもあります。調味料はしょうゆと砂糖(みりん)を用い、煎る際に胡麻油を少し加えることで風味を出します。

また、お嬢さんの家では、前日にすきやきを行った翌日、その汁でおからを煎り付けることがよく行われていました。すきやきの最期を何によってしめくくるかにはそれぞれの家庭の流儀がありますが、お嬢さんの家の場合、それはおじやでもうどんでも餅でも板麩でも葛切りでも卵とじでもなく、おからだったということになります。

煎り付けたおからは、冷蔵庫に入れると少し保存がききます。朝食に一鉢加えておかずにしたり、湯にくぐらせた油揚げに詰めて煮付けても(これは親子煮でしょうか)おいしくいただくことができます。

写真は、2月のアメリカ訪問のおりの行きの飛行機の機内食です。行きはビジネスクラスでしたので、このような豪勢な機内食をいただくことができました。この写真は前菜にあたるもので、このあとに主菜と水菓子が付きました。

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4月16日 (日)  ソイミルクのこと

きょうは、思い立ってソイミルクを自分でこしらえてみることにしました。

ソイミルクというのは、日本語でいうと豆乳のことです。豆乳といっても、お豆腐をこしらえることを目的とした濃厚なものではなく、牛乳のかわりにそのまま飲んだり、朝ごはんのシリアルをふやかしたりするのに使えるぐらいの、さらりとした濃度のものを念頭においています。

たいへんおおざっぱな作り方は以下の通りです。

1、乾燥大豆(青大豆でもよいと思います)をボウルに入れ、たっぷりの水を加えて半日ほどつけておく。(時間があれば、つけておく時間はもう少し長いほうがよいかもしれません)

2、水につけておいた大豆を鍋に入れ、大豆をつけていた水とは別の水をたっぷり加え、ひたし豆として食べることができるぐらいの軟らかさまで煮る。お嬢さんの家には真空保温鍋があるので、沸騰した状態の鍋を保温用外鍋に入れ、2時間ほどおいておくと煮えています。

3、ミキサーに煮上がった大豆を入れ、大豆の高さの半分ほどまで煮えた汁を加え、ミキサーで細かくする。もし、ミキサーの羽根がうまく廻らないようでしたら、煮汁を少し加えるか、一度にミキサーに入れる量を少なくして加減をします。

4、細かくした煮大豆をボウルに移し、ミキサーに残った中身にも水を加えてボウルに加え、全体にぽたりとするぐらいの感じの濃度にゆるめます。濃いソイミルクを好む場合には、この時点で水を少なくし、あまりゆるめないでおきます。

5、目のこまかいざるの下にソイミルクを受けるボウルを置き、細かくした煮大豆をざるに入れ、木杓子で押しながら汁をしぼり取ります。ざるに残った大豆はきれいなふきんに少しづつ移し、少量づつ強めにしぼります。
この時、ざるに残ったもの、およびふきんに残ったものは、いわば「おから」です。あとで煎り付けて料理をしますので、捨てずにとっておきます。

6、大豆には一度火を通してあるのですが、ねんのためソイミルクを鍋に移して火にかけ、一度火を通します。ソイミルクは足が早いので、かならず冷蔵庫で保管し、できるだけすぐいただくようにします。

ソイミルクをこしらえる方法には、煮た大豆をミキサーにかける方法のほか、よく水に浸した大豆を生のままミキサーにかけ、細かくしたものに火を通してからしぼる方法がありますが、後者のばあいには「おから」に生大豆の香りが残りますので、お嬢さんは前者の方法をとっています。

今回のアメリカ滞在で泊めていただいた方は、健康管理の方法として、牛乳ではなくソイミルクを常飲しておられました。それに倣って、お嬢さんも滞在中ずっとソイミルクを飲んでいたので、なんとなく恋しくなってこしらえてみたしだいです。

写真は、アメリカにいた時のある日のごはんです。この日はみんなでポーツマスにドライブに出かけることになっていたのですが、お嬢さんだけがひどい風邪をひいており、部屋にひとりで取り残されました。心細くて外出ができず、冷蔵庫をさがしてありあわせを見つけて飢えをしのいだのがこのごはんです。悲しい思い出として掲出しておくことにします。





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4月13日 (木)  聖金曜日のこと

あすは新聞社でのお仕事をすこし早く切り上げ、夕方から開催されるバッハのマタイ受難曲の演奏会にでかける予定です。

今回の演奏会は、マタイ受難曲のいくつかの稿本のうちでも、初期稿といわれる楽譜をもとに演奏されます。ふだん演奏される機会の多い稿本と比較すると、第一部の終曲が簡素なコラールで終わっていること、リピエノと呼ばれる児童合唱がなく、その部分がオルガンで演奏されることなど、いくつかの違いがあります。初期稿の演奏は、CDでは何度か聴いていますが、実際に聴くのは初めてです。

あすは、教会暦でいわゆる聖金曜日と呼ばれる特別な金曜日です。ですので、受難曲の演奏会が行われることには特別な意味があります。また、ホールに名前が冠されている作曲家が最期の時に聴いていたとされるマタイ受難曲を、作曲家の追想とホールの開館10年の記念のために演奏するという意味もあるようです。

教会暦においては、この金曜日に、イエスは十字架につけられ命を落としました。

きょうはその前日の木曜日ですが、マタイ受難曲の歌詞を思い出してみると、いま日記を書いているこの時間(夜10時すぎ)あたりですと、イエスは捕われて会衆の前に引き出され、ピラトと会衆のあいだで、祭りの恩赦をだれに与え、だれを十字架につけるかというやりとりが行われているところでしょうか。

いっぽう、イエスの弟子であったペテロは、会衆にまぎれていたところを見つけられ、おまえも弟子ではなかったかと会衆に問い質されようとしているところでしょうか。もう、一度目の否認をしているところでしょうか。

日記を書き終えたら、おさらいのために受難曲を聴き、深く眠っておこうと思います。

写真は、ハーバード大学の近所にあるちいさな石造りの礼拝堂です。背景の高い建物は、おそらくデザインスクールです。

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4月12日 (水)  訂正:浴用塩のこと

昨日、浴用塩の効用について文章を書いたところ、まうかめ堂さんから、お嬢さんの浴用塩の効用に関する推察にはいくつかあやまりがあるようです、という指摘をいただきました。おぼえているいくつかを箇条書きにしてみます。

1、塩には、お湯の沸点を上げる効能はあるかもしれないが、それは沸騰時においてのみであって、入浴に適した温度のお湯に塩をいれた場合の効能をそれで説明することはできないのではないか。
(まうかめ堂さんは、「お嬢さんが沸騰した湯につかる場合なら、説明はそれで合っていますが」とおっしゃいますが、それは無理です)

2、ブロッコリを塩入りのお湯でゆでると色がよく上がるのは、沸点が上がったことによるのではなく、塩そのものに、ブロッコリの変色をおさえるなんらかの効能があるからではないのか。

いずれももっともな意見ですので、昨日の仮説と対照させるために、きょう書いておくしだいです。なお、いわゆる循環式などの浴槽をお使いのばあい、おふろのお湯に加えてよい入浴剤には制限があるものと思われます。ご留意ください。

写真は猫の山里の猫です。あまり人に慣れておらず、この写真でも今にも逃げそうな構えをしています。この猫はめすで、もうだいぶん歳をとっています。この猫がシャム猫であったため、猫の山里にはシャム猫がどんどん増えるようになりました。猫の山里のファウンディング・マザーでしょうか。

浴用塩に関連することとして、猫の山里には温泉があります。すこし前、冬でも雪のつもらないという場所を掘削したところ出てきました。現在では地元が運営する温泉のほか、地域の人々のための浴場が作られています。

山里の温泉のお湯は熱い塩水で、味噌汁のような濁った風合いがあり、入るときと出るときに目をくばれば、お湯の中ではお互いが見えません。春の連休には、でかけて入浴してこようと思います。

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4月11日 (火)  浴用塩のこと

入浴のおりには、たいていお湯になにか加えるのですが、さいきんでは浴用塩を好むようになりました。

お湯に塩分を加えると、どのような効能によるものか身体がよくあたたまります。また、お湯をつかったあとでも身体が長くあたたまっているように思われます。

たとえばブロッコリをゆでる時など、湯にすこし塩を加えると色がよく上がります。おそらく沸点がすこし上がるのかもしれません。身体がゆるゆるとあたたまるのは、これとおなじような理屈なのでしょう。

以前は、ドイツのクナイプ社の浴用塩を用いていましたが、このところは、イタリアのサンタマリア調剤薬局堂製の入浴塩を用いています。ポメグラント(ざくろ)の香りがつけてある、というふれこみなのですが、なんともいえない、やわらかなよい香りが寝間のあいだまでします。

また、粗めの岩塩にゼラニウムの精油を添加した浴用塩をこしらえてみたところ、こちらもよい香りになりました。そのような気分になりたいのかもしれませんが、このところは深い花の香りが好みのようです。

写真は、猫の山里の猫です。シャムの系統が入っているので、青灰色の毛並みや体格がすこし貧弱に見えますが、これは夏であるためでもあります。冬にでかけたところたいそう肥えておりました。

猫の山里の猫は、どのようなわけか人の肩にじょうずに飛び乗り、肩から首にかけてじょうずに居場所を見つけてじっとしていることができます。この猫が乗っているのはお嬢さんの肩です。肩の出る服を着ていたので、降りるときに爪を立てられ、たいそう痛い思いをしました。

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4月10日 (月)  ニューヨークの美術館のこと

二月の末から三月のはじめにかけてのアメリカ訪問では、はじめてニューヨークを訪れました。

ニューヨークに滞在したのは、三月五日の午後から三月七日の午前までです。三月五日にボストンからニューヨークに向かう飛行機の出発時国が午前十一時ごろでしたので、ほんとうは五日のお昼にはニューヨークに着いているはずだったのですが、飛行機が故障していて飛び立てず、べつの機体にみんなで乗り換えをしたので遅くなってしまったのです。

ニューヨークに滞在していた約一日半のうち、三月六日はコロンビア大学での講演のお手伝いで一日をすごしました。七日はホテルを精算して空港に向かうだけで終わってしまったので、自分の足でニューヨークを歩いてみたのは五日の午後と、すこし早起きをした六日の朝のほんの短い時間です。

短い滞在になりそうなことが予見できたので、ニューヨークではあまり遠出をせず、ちいさな二つの美術館にでかけました。フリックコレクションという美術館と、ノイエギャラリーという展示館です。

どちらの美術館も、マンハッタン地区のミッドタウンにあり、いわゆる五番街に面しています。メトロポリタン美術館を起点におき、北(通りの番号がふえていくほう)を上にして考えると、フリックコレクションは道の反対側を南にまっすぐ10分ほど歩いたところにあり、ノイエギャラリーは、同じく道の反対側を北に2分ほど歩いたところにあります。

ニューヨークで宿泊していたホテルは、セントラルパークをはさんでメトロポリタン美術館と反対側にありました。天気がよく時間があり、体調がよければ散歩ができたのかもしれませんが、大事をとってタクシーに乗りました。きちんとしたコースをとっていただき、道路もさほど混んでいない時でしたが、チップを入れて8ドルほどでした。

こんどは、それぞれの美術館のことを書こうと思います。

写真は、泊まっていたホテルの近所の風景です。

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