Diary 2006. 6
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6月29日 (木)  美味と栄養のこと

アメリカで食あたりにかかって、お嬢さんの体重は少し減少しました。率直に申し上げて、大きめの猫一匹ぶんぐらいの減量にはからずも成功したことになります。

また、食あたりにかかったことで、食の好みも少し変わりました。

まず、生のものにひどく用心するようになりました。これまでは、パックから取り出して水洗いしただけでいただいていた豆腐など、用心のため一度火を通し、冷ましてからいただくありさまです。

また、生のものや食品の鮮度にたいへん敏感にもなりました。すこし危ういものを口にすると、しぜんに身体が反応し、洗面所にかけこむようになりました。せんだっては、お世話になっている先生とご一緒の昼食の席上で生卵黄を誤っていただいてしまい(卵黄は日本蕎麦に載っていたのですが、取り除こうとしたところ崩れてしまい、しかたなくいただいたものでした)、午後じゅう苦しい思いをすることになりました。

そのようなわけで、お嬢さんの食卓は昨今いたって淡白です。つめたいお茶をいつでもいただけるようにしたうえで、氷糖でよく煮た銀耳に桂圓や紅棗を浮かべてよく冷やしたものを小碗にひとつ、野菜でこしらえたスープをスープ碗にひとつ、クラッカー数枚に、ひよこ豆でこしらえたディップを塗ると、それで朝食はおわりです。

まうかめ堂さんも、昨今、お嬢さんの体重の変動に気付くようになったようです。災い転じて、ではありませんが、この夏は機嫌よく過ごすことができるかもしれません。

写真は、アメリカのスーパーマーケットの店頭で安売りされていた西瓜です。さほど甘味はありませんが、水分補給によい感じです。

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6月21日 (水)  蛹化のこと

きょうは、朝方になにかひどく扇情的な夢をみてしまい、目覚ましの時間より前に起きてしまいました。

朝刊を取りに、ポストのある庭に出ると、ポストから少し離れたコンクリートの上に、たいそう大きな青虫が落ちていました。青虫の落ちていた上部には甘夏柑の木が茂っていますので、おそらくそこから落ちたのでしょう。

お嬢さんは毛虫は好きではありませんが、青虫はどちらかといえば平気、もしくは積極的に干渉してみたい性分のようです(角の先端まで含めると10センチ近くある天蚕の幼虫など、もうこらえられません)。

わくわくと近付いてみると、それは生きた揚羽蝶の幼虫でした。動きが緩慢であるのと、つまみ上げた時の皮膚の感触と全体的な色調から察するに、これは蛹化が近いようです。

子どものころは、家の庭のパセリや芹葉についた揚羽蝶の幼虫を、祖父の植木鋏の刃先から救っては水槽に入れ、蛹化から羽化までの過程を飽きずに観察していたものでした。
飼育に用いていたのは、むかし家族が鈴虫を育てていた、函部が透明で上部に網製の蓋がついたプラスチック製の水槽です。

蛹化に際してはよい足場が必要なので、幼虫たちはたいてい上部の蓋の裏で蛹になり、その場合、蛹は無事に羽化することができました。

ですが、水槽の上角で蛹になってしまうものもたまにおり(蛹の上端が蓋の角に二点で固定され、尾端が函部の上角に固定されている様子を想起してみてください)、その場合、羽化はできても羽が水槽の角につかえてしまい、飛ぶことのできない成虫になってしまいます。

花に移してとりあえずの栄養を与えたりしていたのですが、あれらを結局どうしたのかの記憶はあいまいです。のうぜんかずらなど、蜜の多い花に移し、吸蜜管を伸ばすのを見て安堵していたのかもしれません。

少し考えて、青虫は甘夏柑の葉陰に移しました。青虫が這って行く道程を見つけるまで、少し青虫の身体を掌で支えていると、青虫はそのうちもそもそと移動してゆきました。

きょうは帰宅が遅かったので、葉元が暗くその後を見届けることはできませんでしたが、あすの朝にでも、気をつけて辺りをみてみようと思います。

写真は、昨年の夏に避暑先の杜で見かけた大きななめくじです。文庫本の長辺ほどの長さがありました。なめくじは痕がつくので触れるのは苦手ですが、動いているのを観察することには興味があります。

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6月20日 (火)  アイロンのこと

アーキヴィストの見習いをさせていただいている研究所のかたほうの勤務が半分になってから、毎週火曜日はお嬢さんが好きにつかってよい日になりました。

きょうは、早暁にすこし大きな地震があって目が醒めてしまいましたが、お嬢さんはたいていすこしゆっくり眼をさまし、朝食兼昼食をいただいてから、おもむろに洗濯にとりかかります。

ちいさなものはそのまま物干しにかけ、シャツはすこし乾燥機にかけて生乾きにしたあと、ハンカチといっしょにアイロンをかけます。

年頃のお嬢さんの衣類にはいろいろな種類がありますが、お嬢さんは編んだものよりシャツを着ているのがすきです。シャツは織りの細かい細糸の棉がよく、そのようなシャツは素肌に着ると肌ざわりがよく、よく汗を取ります。なにか所用があれば、絹のクラバットを襟につければ、だいたいの場所にでかけられますし、すこし寒いときは絹のスカーフを中に結んでおけばたいへん暖かくなります。

そのようなわけで、一週間ぶんのシャツにまとめてアイロンをかけておくことは、家にいる日の大切な作業です。

飽きずに一度にアイロンをかけることができる枚数は、お嬢さんのばあい、シャツが5枚にハンカチが7〜8枚といったところのようです。これがワンピースになると枚数はぐっと少なくなり、胴はぎのないもので2枚、胴はぎがあり、かつスカートにひだがあったりするものですと、1枚かけたところで一度お茶休みをするありさまになります。

昨年のこの季節のお嬢さんはたいそうまるまるとしており、シャツやワンピースのボタンのすきまが軒並み危機に瀕しておりました。ことしは昨年よりすこしまるみが減っておりますので、昨年はあきらめていた服に袖を通すことができるのは嬉しいことです。

写真は、ワシントンモールにいたりすです。まっ逆さまに木にすがりついておりますが、カメラを向けたところ、しばらくそのまま動かずにいてくれたものです。

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6月16日 (金)  料理の本のこと

アーキヴィストの見習いをさせていただいている研究所からの帰り道、駅を降りて歩いていると、もう少しで家というところにある中ぐらいの規模の古書店の店先の、いわゆるお得用の本棚に、ずっとさがしていた料理の本を思いがけず見つけ、しめしめと求めて帰路につきました。

この本は昭和35年に刊行されたもので、堅表紙の150ページほどの本です。

本に書かれているのは、西洋料理のだしの引きかたと、そのだしを用いたスープ料理の作り方、およびその供しかたです。

だしの引きかたは、まず最も用途の広い牛のだしと鶏のだし、魚のだしからはじまり、最もおいしいだしとされている亀のだしの引きかたに及びます。

亀のだしは鼈でとるのだそうですが、そもそも鼈はどこで求めればよいか、からはじまり、生きた鼈を調理のために解体する方法、解体のおりに気をつけるべきことがらまで、この本の著者は懇切に書いています。

鼈を解体するためには、まず鼈を空腹や水分不足などの怒りっぽい状態にしておき、大きなやっとこもしくは肉切り包丁を手近に置いた上で鼈を調理台に載せ、鼈の前で布ナフキンをひらひらさせると、鼈はそれに噛み付くので、そのまま布ナフキンを強く引いて鼈の首を最大限に伸ばし、そこで、手許に置いておいたやっとこもしくは肉切り包丁で勢いよく首を落とすとよい、と書かれてありました。

鼈は和食でいただいたことは何度かありますが、洋食でいただいたことはありません。そして、このような解体法によって調理されるということも知りませんでした。

昭和35年は、いわゆる「本格的」な西洋料理が一般化するすこし前の時代であったように思われます。簡便な半製品がなかったぶん、家庭向けの料理本であっても記述が本格的であるのが、この時代の料理本が読んで楽しく、かつたいへん役立つ理由であるように思われます。

本は読み始めたばかりですが、きょうはまた、ビシソワーズは必ず葱でこしらえるもので、玉葱ではいけないということも知りました。鼈は物騒ですが、ビシソワーズは平和的ですので、そのうちこしらえてみようと思います。

写真は、アメリカに出かけていたある日の夕食です。近くのスーパーで野菜を買い、いとこおすすめのブリトーを主菜にしたものです。ブリトーの中身にチラントロが入っていたために、母親が体調をくずしたのはこの日の夜のことでした。

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6月15日 (木)  パパ・ロンのこと

いとこの義父はロンといい、テネシー州の州立大学で歴史学を教えています。専門はアメリカにおけるキリスト教伝道の歴史で、聞き書きをまとめた緻密な大著を何冊か著しておられます。

いとこの義父母は、いとこの夫がちいさなころに別居をはじめ、長い間別居を続けたあと、正式に離婚をしました。現在、ロンはあたらしいパートナーのシャロットと暮らしており、義母も、同居はしておりませんが、あたらしいパートナーのアーニーの家と自分の家を行き来しています。義母とアーニーは大学院の先輩と後輩で、長いあいだともだちであったのち、よいパートナーになったのだといとこが教えてくれました。

何日か前の日記では、お嬢さんが、「村方親戚」に関する英語の説明をアメリカの親族にすることになった時のことを書きましたが、そのおり、お嬢さんの説明をふむふむと真面目に聴いて下さったのはロンでした。お嬢さんのことをよほど強烈に憶えていて下さったのでしょうか、今回の旅行では出会ってすぐ、お嬢さんを抱き締め両頬に「ちう」をして、またいろいろストレンジかつインタレスティングな話ができるのはとても嬉しいよ、と大変喜んで下さいました。

そのようなわけで、旅行のあいだじゅう、自動車での移動のたびに、お嬢さんはロンの車にシャロットと乗り、いろいろな話をしました。

お嬢さんの英語はたいへん拙いのですが、ロンの会話のスピードや語彙に手加減はありません。明治期の日本におけるキリスト教伝道はどうだった?とか、メリーランドはテネシーよりガソリンが高い気がするねえ、とか、適量のベーキングソーダを飲むことは胃腸のためにいいんだよ、とか、テネシーに日産の大きな工場ができたから、ぼくの大学にも日本人がずいぶん増えたし、日本語を選択する学生も増えた気がするね、とか、間断なく続く会話に何とか答えているうち、お嬢さんの会話力はそこはかとなく向上したように思われます。

基本になる語彙にいくらかの共通点のある人とは、少しは気楽に話ができるのかもしれません。

写真は、いとこの義姉のパピアが焼いてくださったバタータルトです。地味な色合いでふぞろいな形をしていますが、とてもやさしい、滋味のある風味です。

アメリカを発つ日、パピアはおみやげに、と、大きなクッキーの缶にみっしり詰めたバタータルトをお嬢さんに下さいました。パッキングを済ませたトランクに缶の入る余裕はなく、苦労して持ち帰ったのですが、これは何よりのおみやげでした。惜しみ惜しみいただいているので、部屋にはまだ、タルトがすこし残っています。

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6月14日 (水)  講演会のこと

何日か前の日記で「学ぶことに寄り添っていなさい」と大学生だったお嬢さんたちに説いて下さっていた先生が、ひさしぶりに学校で講演をして下さいました。

先生は日本の生まれではありません。遠い外国で哲学の研究をしておられたのですが、その国の体制に思うことがあり、また、その国も先生の考え方や行動に思うことがあって、ちょうどお嬢さんが生まれた年に、たいへん危険な思いをして日本に逃げてこられていたのです。

先生が、自分の生まれた国に戻ることができず、それでもお嬢さんたちにいろいろ貴いことを教えて下さっている間、さいわいなことにその国の体制は少しづつ変化してゆきました。そして、もう戻ってもだいじょうぶ、ということがわかった年の翌年の春に、先生は自分の生まれた国に戻ってゆかれました。その後、先生は、自分の生まれた国で学問を続けられ、また、日本とその国のあいだがよい関係でいられるよう、たくさんの行動をして下さいました。

講堂に入ると、思いがけず、何人かの同級生が席についていました。みんな、先生のお話を聴くためにやってきたのです。久しぶりにお会いした先生はとても元気そうで、あのころと変わらないあたたかく強い声でお話をして下さいました。

先生は、講演の冒頭にマイネッケのお話をして下さり、歴史学というものは、どんなに絶望的な状況や状態や意識のなかでも、いつでも希望を語るためにあるのですよ、とおっしゃいました。そして、このことは、自分の国に戻ることができないでいる間、ずっと考えていたことなのです、とおっしゃいました。

学ぶことに寄り添っていなさい、手を伸ばして待っていなさい、というのは、先生の日々の実感に裏打ちされていた言葉であったのです。

講演がおわって同級生と席についていると、先生が来て下さり、ひとりひとりの名前を呼んで握手をして下さいました。おしゃれな先生がいつも漂わせていたよい香りもそのままでした。

写真は、ハーバード大学の美術館の入り口にいたりすです。冬だったので食べ物がじゅうぶんではなかったのでしょうか、美術館の入り口のごみばこに出入りして、ドーナツのかけらやべーグルの切れ端をたべていました。心なしか眼に険があるように思われます。





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6月13日 (火)  人類学的に、のこと

お嬢さんの一族は、ふだんは北国の山奥でひっそりくらしています。祖父の里である猫の山里は林業を主とし、農業を従としたくらしをしており、母方の一族は、果樹の栽培や米作など、いろいろなかたちで農業にたずさわっています。

ちいさな山里なので、どちらの里でも、村落共同体がたいへんよく保持されています。成年男性の加わる組織には青年団や消防団などがあり、成人女性の加わる組織には各種の講や婦人会などがあります。

そのようなわけで、いとこが外国で結婚生活を送ることになり、夫やその家族たちがしばしば山里を訪れるようになったことは、山里にとっての大きなできごとでした。

ナシュビルでの結婚式を終えたいとこたちが、日本で披露宴を開くことになったときには、一族のほか、たくさんの山里の人たちが披露宴に参列して下さいました。それらの方々は「村方親戚」、もしくは「村親戚」と呼ばれます。

いとこの披露宴が行われたのは、たしか1999年か2000年の秋でした。お嬢さんは「村方親戚」の方々をアメリカの親族の方々に紹介する役割を割り当てられ、披露宴の会場に向かうバスの中で必死にお話を伺っていました。

いとこの父親より少し若い世代の、えらく威勢のよい5人の男性の方々は、自分たちは「酢豚会」という講を組織しており、月に一度、回り持ちでそれぞれの家で宴会を開き、そこでは必ず酢豚を食べることになっているのだ、そして講の長は、冗談ではあるが「豚頭(ぶたがしら)」と呼ばれているのだ、いう話をして下さり、ひとつそのあたりをうまく先方に紹介してはもらえないか、と威勢よく繰り返しました。

たのしいグループ、ということは理解できるのですが、お嬢さんには、酢豚とたのしいグループとの関連を合理的に説明できるよい英語の語彙が見あたりません。

大学院の授業のなかで、語学を除いて英語に依る割合が最も多かった科目は文化人類学でした。
人類学の教科書の記述の語彙だけをとりかえてでっちあげた「酢豚会」についてのお嬢さんの奇怪な説明を、そのとき披露宴に参列してくださったアメリカの親戚たちは今でも覚えていて下さいました。あのときはみんな「どうしていいかわからなかった」のだそうです。

「人類学的に申し上げて、彼らは豚をトーテムとする部族(トライブ)の構成員です。彼らは儀礼のために、男性のみでしばしば集会を催します。女性の参加は禁止されています。集会は夜間に行われ、そこではサワーポークと呼ばれる特別な食物を皆が分かち合います。彼らは、トーテムである豚を食べることで、その力を分かち合うのです。そして、彼が、部族のリーダーです。彼の部族内での呼称は「ポークヘッド」です」

写真は、卒業記念パーティの会場になった野外広場に咲いていた野ばらです。

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6月12日 (月)  よりそうこと

お嬢さんがアーキヴィストの見習いをさせていただいている場所は2つありますが、5月の帰郷から戻ってみると、そのうちひとつの研究室から、ことしの助成金獲得に失敗いたしましたので、申しわけありませんが来月以降の出勤は以前の半分にしてください、というお知らせが届いておりました。

これは困ったことでしたが、いろいろ考えたり相談をしたりした結果、お嬢さんは、とりあえず郷里に帰るとかアーキヴィストの見習いを切り上げるとかいう決断を下すことはすこし先送りにし、かわりにすこしつましく暮らしてみることにしました。

それから半月ほどが経過していますが、思ったほどつましさは感じません。思いがけずできた時間を、家事や部屋の中の史料の整理にゆるゆる使うことは、ここちよいような少し後ろめたいような、ふしぎな気分です。

大学のころ、専門科目を教えて下さっていた先生は、よく、「この科目が必要とされることはあまりないかもしれないけれど、学ぶことや研究することにはずっと寄り添っていなさい。いつか、なにかの機会が頭上に飛んで来たとき、いつでも手をのばせるようにしてあれば、それでよいのだからね」とお嬢さんたちに語ってくださいました。

追っていってつかんでくる、という方法もたしかにあるかもしれませんが、先生のことをたいへん尊敬していたこともあって、お嬢さんは以来どうものんびりしています。それでも、思いがけず出会った人々や人々の記録に寄り添い続けていられるのは、たいへんしあわせなことです。

写真は、スミソニアン航空宇宙博物館に展示してあった飛行機です。むかし活躍した型の輸送機だったような記憶があります。

「なにかの機会が頭上を飛んできたとき」という言葉から奇妙な連想をしてしまい、載せておくしだいです。

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6月11日 (日)  きねずみのこと

アメリカは、身近なところに思いがけない野生生物がたくさんいるところであるように思います。

お嬢さんがはじめて訪れた場所はインディアナポリス郊外でしたが、宿泊したモーテルの前の芝生には、朝になるとグースという灰色と茶色の羽を持った巨大な水鳥が群れで現れ、近付こうとしたお嬢さんはしばしば威嚇されておりました。

インディアナポリス郊外と中心とを結ぶ道路沿いには、「鹿飛び出し注意」「スカンク生息注意」という交通標識が立っていました。同じ標識はワシントンとメリーランドを結ぶ道路にもありました。

ワシントンで車に同乗させていただいたおり、車を運転していたいとこの義母(カナダに住んでおられます)は「注意といっても、どう注意すればいいのかしら」と言いながら、アメリカとカナダでは自動車保険の範囲が違っていて、カナダでは動物にぶつかって車が破損しても保険が下りないということを説明して下さいました。「鹿をぶつけてしまうと、普通のセダンはまず廃車、スポーツワゴンでも500ドルぐらいかかるわよ」ということです。

2回訪れたハーバード大学では、たくさんのりすが木の間に暮らしていました。うろうろする姿が愛らしいので、木の間に見つけるたびにカメラを向けていたのですが、学生や先生方は気にしていないようでした。

2回目の訪問のおりには、りすは病気を持っているので近寄ってはいけないと先生から教えていただきました。りすに散歩中の犬をけしかけたり(この場合、りすは木に上ってやりすごします)、道を横切るりすを避けきれずに自転車ごと転んでしまった学生が、りすにむかって罵詈雑言を浴びせている姿も見ました。

「ファックしてやる!!」という言葉をリアルに聞いたのはこの時が初めてです。

ワシントンの中心部にもたくさんのりすがいました。写真は、いわゆるモールと呼ばれる議事堂周辺の芝生地帯で一行がお弁当を広げていた時に寄ってきたりすです。チーズのかけらを何個か投げて引き付けたあと、カメラをすこしアップにして、腕をいっぱいに伸ばして撮りました。

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6月10日 (土)  擬似菜食のこと

アメリカにでかけた3日目の夜、一行はアーリントン国立墓地を訪れたのち、ワシントン市内のデュポンサークルという場所にある日本風レストランにでかけました。

当初は、アイリッシュ音楽を楽しみながらアイリッシュ料理をいただくレストランに出かける予定であったのですが、すこし体調を崩して日本食が恋しくなったメンバーが出たため、急に場所を変えていただいたものです。

日本風レストランは寿司をメインメニューとしており、一行はいわゆる伝統的なすしのほか、アメリカ流にアレンジされたスシロールやウドンなどをオーダーし、それなりにおいしくいただいて帰路に就きました。

お嬢さんが体調を崩したのは、その日の真夜中のことです。

激しい嘔吐と下痢と高熱が夜通し続き、びろうな話で申しわけありませんが、さいごは洗面所で便座を抱きかかえ、パジャマを下ろしたままで朝を迎えました。

この症状は、昨年、まうかめ堂さんとレストランで牡蠣をいただいたあとに起こった症状と一致します。おそらくウイルスによる中毒でしょう。嘔吐を止めたり瀉下を止めたりすると毒素がまわって症状が悪化すると思い、水分とビタミンを補給しながらできるだけ安静にして残りの日程をすごしました。

さいわい、症状はその後悪化することはなく、食事の楽しみはその後慎んだものの、お嬢さんは充分アメリカを楽しんで帰国しました。

帰国して体重をはかると、お嬢さんは嬉しいぐらいに減量しておりました(それでもまだまだむっちりしておりますが)。そして、食の好みと食事の量も、以前よりたいへんヘルシーに変わっておりました。

具体的には、ベーコンビッツをふりかけたシーザーサラダよりは、火を通したレタスにぽん酢をかけたものを、手羽先で出汁をひいた中華スープよりは、干椎茸で出汁をとって豆腐皮を浮かせた中華スープを、ブルーチーズとくるみに蜂蜜をかけたおやつよりは、枇杷の砂糖煮の汁で銀耳を煮たおやつを、より好むようになりました。また、少し重いお皿を無理にいただくと、少しして気分が悪くなるようにもなりました。

これが継続されれば、服薬の副作用を差し引いても、お嬢さんは以前の姿に戻れるかもしれません。

写真は、文中で紹介したアメリカ流うどんです。ケータリング用のメニューをおみやげに持ち帰ってきましたので、該当する説明を以下に転記しておきます。

Seafood Udon in a Sake Broth
Fish,Mussel and shrimp simmering in a Sake flavored broth with Tofu and vegetables 9.95

このうどんを目の前にした一行は、とりあえず写真を撮ったあと、めいめいの碗にうどんを取り分けながら、どうしてこれらの具が、うどんの成員としてどんぶりに盛られているのか話し合いました。

もっとも妥当性のある仮説として一行に受け入れられたのは、これはうどんのどんぶりに盛られているが、じつは魚介鍋にヒントを得た創作料理であり、鍋のしめくくりにうどんを入れるという慣習を、鍋の具が美しい状態のまま再現したかったのではないかというお嬢さんの仮説でした。レモンが添えてあるのも、鍋をぽん酢でいただくことを考えれば納得できます(実際、うどんの出汁は薄口でたいへん甘く引いてあり、レモンをしぼると味がしまっておいしくいただけました)。

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